第32話 新橋の三人

 小熊、礼子、椎は牛丼の夕食を済ませた。

 他の客がそうしているように、特にお喋りを楽しむこともせず目の前のタンパク質と糖質を体内に取り入れる作業に集中し、食べ終わったらさっさと店を出る。

 生きていくため必要充分な満腹感を覚えつつ、小熊は椎の家で何度もご馳走になったディナーを思い出した。少なくともあの空間には、会話の無い食事という発想は無かったし、食事とは、食物を摂取するだけでなくその前後の時間も含めたものを指す言葉だった。


 きっとこれからは、こんなふうに義務的に食事を済ませる事が多くなる。高校を卒業すれば礼子や椎に会う事も少なくなるだろうし、大学で新しい人間関係が構築出来るのかもわからない。そんな暇すら無いのかもしれない。

 小熊は礼子の横顔を見た。彼女は極めて単純な思考で出来ているらしく、腹いっぱい食べたら眠くなった様子で、アクビをしながら歩いている。牛丼とサラダでお腹が重そうな様子で歩いていた椎は、小熊の腕を掴んだ。

「あと何回、一緒にご飯を食べられるんですか?」


 小熊は椎から目をそらし、自分たちが泊まっているホテルの方角を見ながら言った。

「カブがあれば、何度でも」

 椎は小さな手に力をこめる。そんな事を聞いてるんじゃないという気持ちが伝わってきた。礼子も小熊と椎の雰囲気に気づいたらしく、顔を正面に向けながら視野の隅で小熊を見ている。

 この時間、今の関係、そして三人が一つの世界に居られる時間は、もうすぐ終わる。


 礼子が髪をかきあげながら言った。

「とりあえず、部屋に帰って寝よう」

 椎の憂いなど礼子には何の意味も無いんだろう。人が成長するに従って変わらなくてはならないというルールを、礼子は気分でねじ曲げる。しかし、誰もがそう出来るとは限らない。

 椎が足を止める。散歩をいやがる犬のように動かない椎と、彼女をそんな気分にさせた歓楽街の街を交互に見た小熊は、椎の脇に腕を回しそのまま持ち上げた。

 礼子も反対側から椎を抱え込み、そのまま新橋の街を駆ける。


 椎は「放してー! 帰るのいやー! ずっとここに居るー!」と叫んでいたが、構わず小熊と礼子の二人で、椎をぶら下げて走った。

 身長一四〇cmに満たぬ女の子が悲鳴を上げながら連れ去られる様は、地元の山梨なら警察でも呼ばれそうな光景だったが、既に夜が更け始め酔っ払いが街に出てきている新橋駅前では、小熊たちも合コンか何かで馬鹿飲みして騒ぐ若者の一部といった感じで、傍迷惑そうな目を向けられるだけだった。


 観念した様子で大人しくなった椎を連れた小熊は、とりあえず目についたスーパーマーケットに入る。こんな繁華街とオフィスだけで出来ているような街にも生活を営む住人が居て、需要の結果として存在しているらしき深夜営業の精肉チェーン系スーパーで、小熊と礼子、椎は、目についたお菓子や軽食をカゴに放り込んだ。

 大袋一杯の買い物を、さっきまで小熊と礼子に運ばれて楽をしていた椎に持たせ、日比谷公園前のホテルに戻った。


 フロント経由で部屋に入った小熊たちは、キングサイズのベッドを二つくっつけた広い寝床の上にお菓子を広げ、夜更かしをしながら喋り合った。最初に会った時の事、一緒に行った九州旅行の事、そしてこれからの事。

 喋り疲れて眠った小熊たちは、隅々まで金のかかった部屋のおかげか、まるで新しい世界が開けたかのような朝を迎えた。無料券の特典を使い切るべく、レストランフロアの朝食バイキングに行き、ホテル自慢の一晩漬け込んだフレンチトーストとドライフルーツ添えのオートミール、肉がファミレスのステーキくらい分厚いベーコンエッグ、ホテル自家製の甘酸っぱいドレッシングのかかったコールスロー、果汁を一滴も残さず絞って飲みたくなるようなグレープフルーツ、コーヒーに厳しい椎が合格点をつけたカフェオレを腹に詰め込む。


 部屋に戻り、チェックアウトの準備を終えた小熊と礼子、椎はフロントに下りていき、無料券を出すだけの清算を終える。小熊たちのチェックインを担当した老練のフロントマネージャーは、またのお越しを心からお待ちしております、と社交辞令を述べた。

 フロントマネージャーが小熊たちの手に押し付けた何枚かのホテル内施設割引券や無料券を見るに、案外世辞でもないのかもしれない。


 ホテルの裏に回った小熊たちは、従業員駐輪場に置かせて貰っていた自分のカブに跨り、キック始動させる。一晩預けただけなのに久しぶりに乗る気がする。

 カブのシートに座った小熊は、一日中走った後でホテルのベッドに転がった時より、心が落ち着いた気がした。過去にカブで旅行に行った時もそうだった気がする。我が家に帰った時よりも、その後買い物にでも行こうとしてカブのシートに尻を落ち着けた時、自分が帰るべきところに帰ってきたような気分になった。

 

 三台のカブはホテルを出て、日比谷公園前の道を走り出した。夕べの酔っ払いだらけの繁華街が幻だったかのような、身なりのいい勤め人が行儀よく歩いている新橋の街をカブで駆け抜ける。 

 ホテルを出てしばらくして、小熊は今日行くところをまだ決めていない事に気づいた。ただ当ても無く走るだけで幸せそうにしている礼子に聞いても無駄だろう。椎を見た。椎は小熊の視線に気づいた様子で言う。

「小熊さんのおうちを見たいです」

 椎は卒業してもずっと一緒という言葉を、建前やその場限りの空約束に終わらせないために、その下準備でもしに行く積もりらしい。

 小熊は頷き、礼子にハンドサインで方向を伝える。

 三台のカブは昨日通ってきたばかりの町田市方面へと走り出した。 

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