第31話 夜景とディナー

 チェックインした部屋は広く落ち着いた場所だった。

 これから先の人生で再度泊まる日が来るかどうかもわからぬ高級ホテルの部屋は、他に説明する言葉が思い浮かばない。

 ドアも家具も壁材も寝具も、バスルームの蛇口にさえ最高の素材が使われていて、外見だけ高級に見せる装飾の類が無い。装飾する必要すら無いんだろう。


 高価な部屋とそれに相応した材料というものは、独特の粒子を発散する効果でも付与されているのか、フロアの廊下を歩いている時から、空気の濃さや密度が今まで入った他の建物とは別物だった。

 礼子はホテルに泊まる時はいつもそうしているように、額縁の裏やベッドの下を見て盗聴器や仕掛け爆弾の有無を調べているが、意味の無い行為だろう。

 これほどの部屋なら盗聴を行う機材も相応の高級品で、容易には見つからないに違いない。爆弾も時限信管はロレックス、爆薬筒はウェッジウッド製かもしれない。


 椎は窓の外を見て、一望に見渡せる日比谷公園と、その向こうにあるビルに感動していた。眼下を歩くちっぽけな人たちを狙撃するマネをしている礼子はとりあえず無視して、小熊は椎の横に並んで夜景を鑑賞しながら言った。

「綺麗だね」

 椎は黙って頷く、結局、景色くらいしか褒めるところが思い浮かばない。


 部屋はサッカーが出来そうなくらい広いリビングと、独立した寝室。ベッドが二つ並べて置かれている。

 ベッドの大きさはダブルよりさらに大きいキングサイズだが、三人で泊まる部屋にベッドが二つ。小熊と礼子、椎は顔を見合わせた。

 「椎ちゃんはわたしと一緒に寝るんだよねー」

 礼子にまとわりつかれた椎がもがきながら、助けを求めるように小熊を見るので、小熊は椎の体のサイズを手で測り、リビングのソファを指差した。

 革張りのソファも三人が並んで寝られそうなくらい広いが、椎は不満そうな顔。ここは公平にジャンケンでもして決めるべきかと思っていたところに、部屋のチャイムが鳴り、ホテルのルーム係が入ってきた。


 プレスの利いた制服を着たルーム係の男性は、ホテルのサービスについて説明してくれた。ランドリーや朝食、プール付きのアスレチックジムの使用は宿泊者へのサービスで無料だが、椎が持って来た無料宿泊券では、ルームサービスのディナーとドリンクもタダになるらしい。

 続いてルーム係はパンフレットを見せる。スイートルームへの三人宿泊ということで、折りたたみベッドが設置されるが、どのベッドがいいのか選べるという。


 折りたたみであることが信じられないような、周囲にオーディオや空調等の快適装備が付属したベッドや、少女漫画で見るような天蓋付きのベッドなど、色々なベッドが革装の立派なパンフレットに掲載されている。

 あれこれと迷ってる様子の椎や礼子を尻目に、部屋に設置された二つのベッドを見た小熊は、指差しながら言った。

「これ、寄せられませんか?」

 ルーム係の男性はこれぞ名案といった表情で、さっそく移動に必要なスタッフを呼んで来ると言ったが、小熊と礼子は首を振った。

「自分で出来る」


 小熊と礼子は心配そうな表情のルーム係を尻目に、ベッドの枕側と足元側に分かれキングサイズのベッドを持ち上げた。椎が床を這い、ベッドの足が高価そうな絨毯を擦らないように見ている。

 ベッドの移動はあっさり終わった。小熊と礼子は息一つ乱していない。家庭用とは異なるホテルのベッドはそれなりに重かったが、山の中で道から滑落したカブを持ち上げた時よりよっぽど軽い。

 感嘆した様子のルーム係は、チップを払わないのが申し訳なくなるほど丁寧な態度で他のサービスの説明を終えた後、部屋から退去した。


 小熊と礼子は、自分たちが作り上げたベッドスペースを満足そうに見下ろした。小熊の部屋くらいあるかもしれない。少なくとも三人が折り重なるようにして寝たネットカフェの座敷とは大違い。

「寝心地はよさそうね」

「試してみよう」

 今夜の安眠を左右するベッドの固さを確かめるべく、小熊と礼子は左右から椎の体を持ち上げてベッドに放り出した。椎は何が起きたのかわからないといった表情のまま、ベッドの上で数回バウンドし床に落ちた。

 どうやらマットレスは上等な代物で、ぐっすり眠れそうな様子。「何するんですかー!」と言いながら床をハイハイして寄ってきた椎は、もう一回やってほしいとでも言いたげに両腕を突き出す。


 そのまましばらくベッドの上で跳ねたり転がったり椎を投げたりして遊んだ小熊と礼子は、風呂に入る事にした。 

 普段泊まっているビジネスホテルやネットカフェとは違う高級ホテルのスイートルーム。もしかして風呂も三人一緒に入れるプールのように大きな湯船になっているのかと思ったが、風呂のサイズは人間工学の粋を尽くし設計されたらしき形状の一人用バスタブで、三人で押し入るのは無理そう。椎を抱えて入るくらいは出来るかもしれないが、はしゃぎ過ぎたらしき椎はソファの上でのびている。


 交代で入浴を済ませ、ホテル備え付けのバスローブを着た小熊と礼子、椎はもう一度ベッドに寝転がった。部屋には他にも大型のテレビモニターやバーカウンターなど、遊べそうな物が色々とあったが、とりあえずこのベッドだけで充分。

 明日もカブで走り回る。このまま眠ってしまう前に夕食を済ませなくてはいけない。小熊はルームサービスのメニューを手に取った。椎が脇から覗き込んでくる。

 和食やフレンチなど、普通のホテルならレストランフロアで食べるような豪華な料理が並ぶメニューを見た礼子が言う。

「外に食べに行こっか」


 小熊と椎も賛成した。一度着たバスローブを脱ぎ捨てて外出用の服を身に着ける。

 部屋を出てフロントに降り、一時外出することを伝えた小熊たちは、徒歩でホテルの外に出た。スマホを一瞥した後、ホテルのある内幸町から五分ほど歩き、新橋の駅前で目についたチェーンの牛丼店に入る。

 一流ホテルのスタッフより無愛想だがそれだけに気遣いのいらない自販機で食券を買って席に落ち着いた小熊は、深い吐息を発した。礼子も椎もリラックスした様子。


 すぐに礼子の牛丼特盛り卵つき、椎の普通盛りとごぼうサラダが目の前に置かれる。小熊は大盛りに紅しょうがをたっぷりかけた牛丼をかきこむように口に運ぶ。またしても安堵の息が漏れた。

 右も左もサラリーマンの牛丼屋。窓からは小熊たちが宿泊しているホテルが見える。高級ホテルに不似合いな乗り物と衣服でやってきた自分たちが、これから先ずっと高価な食べ物や豪奢な暮らしに馴染めない人生を送るとは思っていない。これから大学を出て勤め人になったら、あのホテルに相応しい姿でやってきて、パーキング係にカブのキーを投げていることだろう。夕食はもちろんホテルのルームサービスかレストラン。

 でも、今はこれでいい。

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