第11話 声

 午後一杯を費やした補習と追試が終わり、小熊がカブで帰路につく頃には、冬の早い夕暮れが始まっていた。

 普通の通学時間なら防寒の用を充分に果たすウールライナーつきのライディングジャケットが、日没後の寒気に降参したらしく、ごく短い距離の低速走行にもかかわらず体が冷えてくる。

 途中でスーパーに寄り、疲れて帰った後の夕食準備で手抜きをするためレトルトのカレーか丼物でも買おうと思ったが、米を炊くのさえ面倒くさいと思い、弁当とパックの惣菜に手を伸ばす。


 通勤時間で混雑した国道二十号経由で、日野春駅近くの自宅に帰った小熊は、上着を脱いで投げ、ネクタイを解きながら自分がサラリーマンにでもなったような気分を味わった。

 蛍光灯で照らされた部屋の中は冷たく、家電が発てるノイズだけが耳につく。小熊はラジオのスイッチを点けてNHK-FMを流しながら、都会で一人暮らしする勤め人がペットを飼いたがる気持ちがわかった。

 あるいは、結婚したがる気分。


 風呂を沸かして入る気にもなれないので、シャワーを浴びて弁当をレンジで温め、夕食という生活における義務を消化しようと思ったが、玄関から少し入ったところで座り込んだ小熊は、体をバスルームまで動かせない。

 補習と追試と風呂と夕食。望まぬ仕事で忙殺されるのに冬は不向きだと思った。寒さで失われる体温が色々な気力を削いでいく、きっと夏に汗まみれで帰った後も同じ事を思っているんだろう。

 重い体を嫌々ながら動かして、何とかシャワーを浴びようとした小熊の胸が、音と共に振動する。


 ライディングジャケットの胸ポケットに入れていたスマホが鳴っている。こんな時に誰からの電話か。もし何かの請求なら現金の代わりに火炎瓶でも投げつけてやろうと思いながら着信画面を見る。慧海。

 床にだらしなく座り込んでいた小熊は姿勢を正し、通話アイコンをタップした。

「私です」


 姉の椎よりハスキーな、弦楽器を思わせる声。椎がベニヤ板で作ったギターか胡弓なら、慧海は重厚なトウカエデ材で作られたベースかチェロ。小熊の主観では、慧海は他の人間と声の値段が違う。

「ちょうど声を聞きたいと思っていたところ」

 慧海の快活な笑い声が聞こえてくる。それからラジオで流れる交響楽より上等な音声が聞こえてきた。

「父が小熊さんを夕食に招待したいと言っています。突然ですが、いい食材が手に入ったので」


 椎は小熊と礼子の協力で大学受験を終え、先日合格通知を受け取った。椎の父母が是非お礼をしたいと言っていた事は聞いていた。冬の間は受験中の椎を気遣ってあまり椎の家に行かなかったが、合格祝いとなれば顔を出す資格は充分だろう。

 小熊は電話越しに慧海に伝えた。

「三十分くらいで行く」

 慧海は「お待ちしております」とだけ言って電話を切った。無駄口も、相手が先に切るのを待つという意味の無い行為も無い。だから小熊はいつも慧海の話す事や行動が気になる。


 勢いよく立ち上がった小熊は、買ってきたスーパーの弁当を冷蔵庫に入れる。庫内灯に照らされた弁当を見た時、映画ダーティーハリーでクリント・イーストウッドが夜中に冷蔵庫から出したハンバーガーを食べる寒々としたシーンを思い出したが、これからありつくであろう濃厚な夕食の翌朝には、簡素ですぐに食べられる弁当も美味しく頂けるだろうと思い、冷蔵庫を閉めた。

 制服を脱いだ小熊はシャワーを浴び、入院中にずっと切っていなかったため少し伸び気味な髪を気にしながらドライヤーで乾かし、服を身に着け始めた。

 ダマールの肌着の上にリー・ライダースのデニム上下を着込む。日没後の冷気を思い出してコットンのライディングジャケットの代わりにシノさんから借りっ放しになっているKADOYAの黒革製ダブル・ライダースを手に取った。


 若い時に仕立てたというライダース・ジャケットの腹が「ぱつぱつ」になってしまったシノさんは、ダイエットが成功したら返せと言っていたが、下に厚着すると小熊のウエストにピッタリで、オーダーのため大半の輸入ライダースジャケットのように袖が長すぎて余らない革ジャンを返却する積もりは無い。シノさんの食事制限や運動が全然進んでいない事は見た目にも明らかだし、何か目的意識を持たせるためには、しばらくジャケットを没収しておいたほうがいいだろう。


 さっき脱いだばかりのヘルメットを再び被った小熊は、玄関から外に出ながら革グローブを着ける。ジャケットもグローブも、革は自分の体温で暖かくなるまでは繊維ウェアより寒い。ワークマンの防寒ツナギを着たほうが良かったかと思いながらも、見栄えも大事だと思いライダースジャケットのジッパーを締めた。

 まだエンジンに熱の残っているカブのエンジンを始動させた小熊は、椎と慧海の家まで走り出した。

 

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