第7話 東京

 小熊は皿に盛られた苺ミルクゼリーをいじくりながら、礼子の言葉に返答した。

「東京ならもう行った」

 口に出してみて気づいたが、小熊にとって東京とは複雑な意味を持つ場所だった。

 日本、あるいは世界の各地から人が集まり、小熊や椎のように進学と同時に上京という、東京以外のいかなる県にも当てはまらない呼び名の付いた引越しをする人間も多いが、小熊にとって遥か遠くの別世界かといえばそうでもない。


 山梨と県境が接した隣県の東京都は、カブがあればいつでも行くことが出来るし、事実進学や引越しの準備、あるいは仕事や当てのないツーリングで何度も行っている。授業が午前中で終わった日などは学校帰りに行って用を済ませ、夕飯までに家に帰れる。

 費用も列車で行けばそれなりにかかるが、カブならば東京まで行ってあちこち走り回り、山梨まで帰ってもガソリン代は千円でお釣りが来る。

 無論バイク便の仕事で乗っているVTRやシノさんから時々借りているサニートラックなら、高速道路を使ってもっと気軽に行ける。

 それでも小熊にとって東京は、山梨県外の他の場所とは違う、特別な場所だった。


 流通が進化した今もなお、東京に行かないと手に入らない物は多く、東京でしか見られない物もある。

 途方も無い物量がもたらす、人や建物の塊はとても大きく、小熊はいつも東京に行くたび、他県には無い威圧や魁偉を感じていた。

 道に関しても進学、転居先の南大沢周辺や、バイク便の仕事で何度か行った官庁、オフィス街などは少しならわかるが、網の目のように複雑な道路はこれから一生を費やしても把握出来る気がしない。


 自分の行ったことのある場所、知っている場所を基準に作り上げた小熊の頭の中にある地図には、東京というものは存在していても、その中身は真っ白な中に幾つかの点と線が描かれてるだけだった。

 ほとんど記憶には無いが、失踪した母親の話では埼玉南部だという小熊の出生地から幼少期に引っ越して以来、ずっと山梨に居る小熊の頭には、道だけでなく各地の気候や特性まで網羅した色彩豊かな山梨県地図が描かれている。これから生活の場となる東京の白い地図に線を引き、色をつけなくてはいけない。それは大学生活が始まってから暇を見つてやればいい物ではなく、早急に着手しなくてはいけない物のように思えた。


 礼子も同じ事を考えているのだろうかと思った小熊は、苺ミルクのゼリーをコーヒーで流し込んで顔を上げた。

 小熊の返答を待つより、ただ自分が話したいと思っている事を一方的にまくしたてたいといった表情の礼子は、スマホを取り出して小熊に見せた。

「このクソつまらない高校を出て、日本を出た後の私の居場所は、世界にあるわ。そのためにも自分のルーツである日本の中心を知らないといけない」

 高校卒業後の進路を、進学でも就職でもなくハンターカブで放浪することだと決め、学校には「留学準備のための語学習得」という曖昧で不確かな進路希望を提出した礼子の見せたスマホには、彼女の未来が映っていた。


「ベトナム、タイ三日間アジアングルメツアーって書いてあるけど」

 礼子は大手旅行会社主催のパックツアー広告にある、レンタルバイクで屋台巡りというオプションの部分を指しながら言う。

「最初はここからよ! 言葉わかんないし、チケットとかホテルの取り方なんてもっとわかんない」

 そのわからない部分を積極的に学ぼうという意思は更々無いということはわかった。もう一つ、聞く価値の無い話だということも。

 とりあえず、もうちょっとまともな意見を聞くべく、ゼリーを食べていたスプーンの柄で椎をつついた。


 いきなり脇に刺激を受けた椎は咳き込み、皿に口をつけてかきこむように食べていたミルクゼリーを吹き出させる。

 口と鼻から白いゼリーを垂れ流した椎は咳に加えクシャミをしながら、礼子が放り投げたタオルで顔を拭いていたが、何事も無かったかのような澄まし顔を小熊に向ける。小熊はとりあえず聞いた。

「東京だって、どうする?」

 椎はお嬢さまがナプキンを使うかのような上品な仕草で口を拭いていた。妹の慧海なら、彼女が咳き込んで食べ物をぶちまける姿など想像できないが、もしそうなったら外科医が傷口から垂れる血を拭くように、正確、確実ながら優雅さも失わぬ仕草を見せてくれていたのかもしれないと小熊は思った。


 椎は慧海ならば手際よく畳んで膝に置くであろうタオルを噛み、染みこんだ苺ミルクゼリーをちゅうちゅうと吸いながら答えた。

「東京! 行って見たいです! まずは小熊さんのおうちに行って、それから私のマンションにも来てほしいです! やっぱり家具の位置は、二人で話し合って決めたいですし、それから、うーん礼子ちゃんの家も、まぁヒマだったら行ってあげようかなって」

 話してる途中で拭き切れなかったらしきミルクゼリーが鼻から出てきた。椎は慌てて顔を隠しゼリーをすすりこんだが、鼻に刺激を受けたらしく発情期の猫のような悲鳴を上げている。


 小熊は自分のスマホを取り出し、補習と追試で埋まったスケジュール画面を見ながら、礼子に言った。

「なんとか卒業式までに単位取得を終わらせたら、その後は引越しの日まで時間が空く。東京までちょっと遊びに行くのもいいかもしれない」

 小熊の言葉を聞き、親指を立てた礼子は、あまり善い行いを考えてなさそうな笑顔を見せながら拳をぶつけてきた。顔が苺ミルク臭くなった椎も慌てて小さな手を当てる。

 皆で一緒に卒業旅行に行くような仲じゃない。でも、意思と目的を持って同じ場所に行くことに異論は無い。

 三人にはそれを可能としてくれるカブがある。

 

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