第8話 縛り

 卒業式が終わったら三人で東京に行く。

 奇妙な決め事が交されて数日経った頃、椎の受験合格が発表された。

 一般入試で東京の紀尾井町にある大学の外国語学科に進む事を選び、夏の終わり頃からずっと受験勉強をしていた椎は、小さな体に溜め込んだ負荷から開放された様子で、丸一日を寝て過ごした。


 受験勉強をしていた頃も、試験を終えて結果を待っている時も、どんなに長く眠ろうとしても五時間弱しか眠れなかったという椎は、ようやく満ち足りた眠りについた様子だったが、慧海の話では椎は寝巻きと部屋着、近所へ出かける時の外出着を兼用しているSSラツィオのジャージ姿のまま、家のリビングにあるソファを占拠し、父が真横で電動工具並の音を立てるコーヒーミルを回していても、目を覚ますことすらせず、たまに起き出して母や妹の慧海が作ってくれた、サンドイッチ等の手づかみで食べられる物を食べ、食べたらまた寝るといった時間を繰り返す、とてもだらしない姿だったらしい。


 翌日も両親が店に出ていてもう居ないリビングのソファで、ミッソーニのタオルケットを体に巻きつけ、セミかカイコの幼虫のような姿で寝ていた椎は、小熊がカブで迎えに行っても学校に行く事を渋っている様子だったが、小熊がこのまま梱包してカブに乗せていったほうが手っ取り早いと思い、手ごろな段ボール箱を見繕っていると、今朝LINEで姉を学校に連れて行って欲しいと頼んできた慧海が「私が姉さんの格好をして三年生の教室に行くというのはどうでしょう?」と小熊に提案し、小熊もそれに乗っかろうとしたところ、渋々といった感じでタオルケットの繭から顔を出した。


 身長百四十cmにも満たぬ椎と百七十cmを超える長身の慧海が入れ替われるわけはないが、世の中には慧海のように、常人には出来ぬ事を易く行う人間が居る。少なくとも時々小熊や椎の三年生教室に顔を出す慧海をいつも熱い視線で見ていて、小熊たちに慧海の事をしつこく聞いてきていた小熊の担任教師は、慧海が彼女の瞳を見つめながら「椎です」と名乗ったなら、迷わず椎の出席に丸をつけるだろう。 

 小熊は起き上がって両手を突き出した椎を抱っこして浴室に連れて行き、シャワーを浴びさせて髪を乾かし、制服に着替えさせる。

 まだ高校卒業もしていないのに、気持ちだけは大学生になっているらしく、窮屈な制服をイヤがっている様子の椎を制服のネクタイで締め上げた。


 確かに小熊や椎は、もうすぐ制服を着なくてもよくなるが、これから大学生になり、社会人になれば体を締め付ける物は減るどころか増えてくる。そう思いながら小熊はのろのろとディパックに教科書やファイルを詰めている椎に、日本の消防法に適応させるため耐火ガラスの覆いがついた暖炉のマントルピースに置いてあったmomoのヘルメットとグローブを手に取り、椎に放った。

マントルピースには同じmomoのヘルメットが二つ並べて置かれていて、ワンサイズ大きなヘルメットは慧海の物。


 それまでバイクに興味を示さなかった慧海は、いともあっさり一台の原付バイクを買った。

 ピアジオ・ベスパ。イタリアの有名な小型バイクにして、現在日本で多数発売されているスクーターと呼ばれるバイクの始祖。

 慧海は日本では結構な値段がついているという二十年落ちのベスパ50sを棒人間の解体屋で見つけ、それまで散財とは縁遠かった彼女は、即決でローンを組んで購入した。

 突然の行動だったが、小熊に理由の察しがついた。きっとベスパを欲しいと思って指をくわえて眺めていたのは、慧海ではなく彼女と同級生で、よく一緒に居るという伊藤史だろう。


 解体送りのバイクなだけあって、それなりにくたびれていたベスパはシノさんの店で一通りメンテナンスとファインチューニングを受け、機関の状態は良好だったが、慧海はほとんどベスパに乗らず、いつも史が持っているホンダモトラを借りて乗っている。

 事故を起こした時の保険や補償に関しては、双方ともバイクではなく乗っている人間に保険がかかるファミリーバイク特約に加入しているため、問題無いらしい。

 小熊は最初から慧海はモトラ、史はベスパを所有すれば無駄が無くていいと思ったが、史から聞いた話によれば、慧海のベスパに史が乗り、史のモトラに慧海が乗るのは、二人なりの合理性を追求した結果。


 人間は自分のバイクに乗っていると、自らの能力を目一杯使う無茶な乗り方をしがちだが、借り物のバイクならそうはいかない。好んで危険な行為を繰り返す慧海や、決して体力壮健というわけではない史が、自分の能力を超えた無理をしないため、互いにバイクを貸し合うという方法を選んだ。  

 いつも一緒に居るとは限らない慧海と史、慧海が一人で行動していて、史を気遣う必要の無い時にも史のモトラがある。だから慧海はモトラを傷つけ、史を悲しませるような事はしない。史には慧海が遠くに居て助けてくれない時も、慧海のベスパが側に居る。だから自分自身の体だけでなく慧海のベスパを壊さないように慎重に行動する。

 バイクにはそんなことも出来るのかと小熊は思ったが、自分が一ヶ月ほど入院している間に、色々な物事が勝手に進んでいたのは少々面白く無い。とりあえず、今度慧海が乗っている史のモトラを借りて、思いっきりブン回してみようと思った。


 小熊から受け取ったヘルメットを被り、ディパックを背負いながらリビングから玄関に出た椎は、リトルカブに乗るようになってから、くるぶしまで覆う靴を履いたほうがいいという小熊の助言を聞いて、通学用ローファの替わりに履くようになったティンバーランド・イエローブーツの紐を結び、momoの革グローブを嵌める。

 緩慢で怠惰だった椎が、身に着けた装備に気持ちを引き締められた姿を見た小熊も、自分のヘルメットとシューズ、グローブを着けながら玄関を開ける。

 外では小熊のスーパーカブと、椎のリトルカブが待っていた。


 人が子供から大人になるに従って、自分を締め付ける物は増えてくる。たとえばバイクに乗る時に必要となる物々。

 だが、何を身に着けるかを自分で選べる。

 小熊と椎は、各々自分のカブのエンジンを始動させた。

 それは束縛ではない。

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