第40話 春雨
国道二十号で都内に入り、日野バイパスに折れてしばらく走ったあたりで、先頭の椎がウインカ-を点けてロードサイドのコンビニに入った。
礼子と小熊もついていく。コンビニの駐輪場に三台のカブを並べて駐めた。椎がヘルメットを取って言った。
「この辺でいいんじゃないですか?」
礼子も今まで走ってきた道を振り返りながら言う。
「そうね」
小熊たちの視線の先には、中央高速の国立府中インターがあった。
高速の入り口と物流拠点のあるこの場所には、都下の主要道路の幾つかが集中していた。目の前を通る国道二十号線を戻れば、世界を放浪する礼子がとりあえず帰るという八王子の実家がある。逆方向に少し走れば、小熊の大学がある南大沢へと至る都道二十号線の起点。二子玉川の椎のマンションへと向かう、多摩川沿いの道路に接続する三屋通りの入り口は、コンビニの目と鼻の先。
目の前に広がる道と、選ばなくてはいけない選択肢から視線を逸らした小熊は、長距離走行で疲れたのか、呟くような声を絞り出すのが精一杯だった。
「もう少し、走る? まだ椎の部屋にも行ってないし」
椎が駆け寄ってきた。俯いて小熊の腕を掴む。手の筋が浮き出すほど強く掴んだ椎の手が震えている。
「おねがい」
椎の指が小熊の腕に食い込んでいる。痛いとは言わなかった。椎はもっと強い痛みに耐えている。
「おねがいします。今、それ、言わないで」
礼子が雨空を眺めながら言った。
「これ以上行くと、戻るのが面倒になる」
実家付近を素通りしてここまで一緒に走った礼子は、これから来た道を引き返さなくてはいけない。
曇天ながらもう冬のように寒々しくない空から、小雨が降ってきた。
とりえあず駐輪場を使わせて貰っているので、コンビニで紙カップのコーヒーを買う。まだ飲むには熱いコーヒーが無くなるまで、それがちょうどいい時間だろう。
山梨からここまで来る道中は順調だった。それまで厄介な忘れ物のように心にな引っかかっていた山梨での挨拶回りを終えた開放感もあったが、天候や道路状況にも恵まれた。
道は早く目的地に着きたいと思っている時ほど、長く困難に感じる。
途中で小熊が短い期間ながら在籍した甲府昭和のバイク便会社に寄った時は、ちょっとした騒動になった。浮谷社長はこの会社を畳んで東京で起業する!と言い出し、他のバイク便仲間もそれに同調する始末だったので、小熊は浮谷に言った。
「あなたは甘い」
富裕な親の過保護から脱するためにバイク便会社を興しつつも、まだ親からお小遣いを貰っている浮谷は、それまで抱きしめて放さなかった小熊から離れ、涙目で言った。
「約束は果たしてもらうからね」
小熊は頷いた後で気づく、浮谷が言っているのは、このバイク便会社で唯一の現役高校生である小熊に、制服を着て会社に来て欲しいという約束。小熊はすっかり忘れていたが、返済の長引いた借りには利息がついたらしく、小熊は近々大学生の身でブレザーとチェックのスカートを着て、ここに来ることになってしまった。
この社長との縁はこれからも切れることは無いんだろう。お互いがそれを望んでいて、二人ともバイクに乗っていれば、双方を隔てる物は何も無い。
小熊や礼子が世話になった勝沼の解体屋にも寄った。店は吹きっ晒しの解体車置き場から小奇麗な倉庫になっていたが、小熊たちが棒人間と呼んでいた解体屋の社長は何も変わりなかった。きっと将来小熊たちが何かやらかして、処刑場に引っ立てられる前の今生の別れを交わすような羽目になった時も、彼は今日と同じような顔をしているんだろう。
棒人間の恋人を自称し、小熊が新居を決める時にも係わった。名前を覚えたくもない小熊が、乗っている車からマルーンの女と呼んでいる大学准教授とも、一応握手を交わした。小熊はもうこれっきり会わずに済むことを心底願っていたが、マルーンの女はニヤニヤと笑いながら「またね」とだけ言った。
陽光は雲に閉ざされ、降るか降らぬかの雨。春とはいえまだ寒気が少し残っているらしく、コーヒーはすぐに温くなった。
アイスコーヒーが美味い季節でもないので、小熊は未練がましく残していたコーヒーを飲みきる。
紙コップをゴミ箱に放り捨てた小熊と礼子、椎は三人で抱きあい、それから各々のカブのエンジンをかける。
小熊、礼子、椎はコンビニを出て、各々の進む道へと走り出した。
この音と振動と共に過ごした高校時代の記憶を共有している限り、三人の関係はこれから先も変わることが無い。今はそう信じようと思った。
雨は少し強くなったが、小熊はヘルメットのバイザーを下ろすことなく走り続けた。
この季節の雨はすぐに止む。きっとまた晴れるだろう。でも、今はもう少しだけ、雨のままのほうがいいと思った。
前を向いて走り続ける小熊の頬に、春雨の雫が流れた。
スーパーカブ6(終)
スーパーカブ6 トネ コーケン @akaza
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