スーパーカブ6
トネ コーケン
第1話 卒業式
普段は好きに着崩した制服を着ている同級生たちが、今日はネクタイをきちんと締め、上着のボタンまでかけているのが奇妙だった。
今日は小熊たち三年生が朝から体育館に集められ、並べられたパイプ椅子に座らされている。
同級生の名が次々と呼ばれ、周りの生徒が鼻を鳴らし涙ぐむ中、小熊はこの丈夫で意外と座り心地の良い椅子を一つ貰えないものかと考えていた。
名簿順に自分の名を呼ばれた小熊は椅子から立ち上がる。小熊より前の席に座っていた礼子が、通り際に言った。
「こんなのpdfでくれればいいのに」
小熊は礼子が先日、ハンターカブの任意保険を更新した時の事を思い出した。
ペーパーレスのご時世らしく、ネットで契約した保険に紙の証書は存在せず、自宅のパソコンに送られてくる証書ファイルがその役割を果たすという。
少なくとも礼子にとって、高校の卒業証書など事故の時に重要となる保険証書より価値の薄い物で、物理的な紙と入れ物の筒など嵩張るだけの無駄らしい
とりあえず世間で大事にされている物に対してそこまで割り切った考えをしていない小熊は、階段を登り、壇上で校長の前に立った。
「感慨もひとしおでしょう」
小熊は校長の言葉に曖昧な笑みを浮かべながら、卒業証書を受け取る。
確かに今までの高校生活は、順風満帆というわけには行かなかった。父親は既に亡く、一年生にして母の失踪で親無しになった小熊は、二年生の時にスーパーカブというバイクに出会い、それから濃密な時間が始まった。
そのツケなのか三年生の三学期にカブで事故を起こして足を骨折し、一ヶ月の入院によって危うくなった卒業単位は、卒業式前日まで詰め込まれた補習と追試でなんとか帳尻を合わせた。卒業見込みが決まったのは、つい数時間前。
ただの紙にしては重い卒業証書を手に階段を降りた小熊は、自分の席に戻りながら思った。やっぱりカブの登録や保険ではなく、自分自身の証書は紙で貰ったほうがいい。
手に持って存在を確かめることで、実感を得られる物もあるし、一度貰ってしまえば保険証書のファイルみたいに事故や更新のたびに見返す事も無い。
席についた小熊は、卒業証書授与の時間が終わるのを待ち、その後の教職員への一礼を義務的にこなしながら、次に自分がやる事を再確認した。
何をするのかはもうわかっている。礼子も、式の間ずっとこっそりスマホを見ていた椎もわかっている。
式が終わり、卒業生の退場が行われた。列を作り、名残りを惜しむようにゆっくりと歩く同級生たちの間で、小熊はこの体育館から出られる瞬間を待った。
晴天に恵まれた卒業式。外の陽光が顔に当たった瞬間。小熊は行列から離れ小走りに駆け出した。
出席簿の関係で小熊より先に居た礼子と椎は、既に走り出している。三人は蟻のように列を成した同級生が入っていく校舎を無視し、裏手へと回りこむ。
予定ではこの後、教室で担任教師のお話と謝恩会が行われることになっているが、補習に付き合ってくれた担任教師には式の前に丁寧な礼を述べたし、出席しなくとも高校卒業に支障が出るわけではない。
同じ事を思っているらしき礼子と椎に少し遅れて、小熊は卒業式の中途からずっと行きたかった場所に到着した。
校舎裏の駐輪場。小熊と礼子と椎のカブが駐めてある場所。
礼子に「遅い遅い」と急かされながら、小熊はブレザーのポケットからキーを取り出し、カブをキック始動させる。後部のボックスからヘルメットとグローブ、ライディングジャケットを取り出して身につけた。
今日はディパック型の通学カバンを持ってきていない。唯一の荷物らしき卒業証書の筒を後部ボックスに放り込んだ小熊は、既にリトルカブで出発した椎を追うようにカブを発進させる。
やたらジッパーやボタンの多いフライトジャケットを着ているせいで身支度に少しもたついた礼子が、ハンターカブで後から追いかけてくる。
三台のカブは高校から飛び出した。校門を通った小熊は、自分が三年間を過ごした高校を一瞥する。
それなりに思い出もあるが、浸るのは後にしようと思った。今はただ、あの卒業式会場に流れる緩慢な時間に流されそうになる自分を、本来あるべきスピードに戻したかった。
小熊はそれを可能にしてくれるスーパーカブのスロットルを開け、三人の目的地へと向かった。
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