第14話 開放感

 昨日までより、幾らか集中して補習と追試を受けるようになった気がした。

 同じ教室で補習を受ける生徒は、小熊以外にも数人居た。

 不登校や低成績、小熊と同じく入院していた生徒。中にはほぼ皆勤賞で成績も中庸ながら、一年で百回以上の遅刻をした生徒も居る。そういうバイトの予定でも組んでしまったのかと思いきや、単に朝起きられなかっただけらしい。


 普段からほとんど会話の無い顔ぶれで、小熊も劣等な集団に特有のダメな雰囲気を発する他の補習生徒と、交流やお喋りをする事は無かった。この中に染まれば、自分の中にも確実に存在する怠けた人格が肥大化する気がした。

 ダメな人間といった点では、自分もまたこの集団と同列である事はわかっていた。成績や社会性がダメだったわけじゃないと思っているが、運が悪い。結果として溜め込んだ補習の負債は、この中でトップクラス。

 補習を卒業式以後の休みにまで持ち越す事を覚悟しているのか、さほど気合いが入っていない様子の生徒に囲まれながら、小熊は日々補習と追試をこなしていき、補習のやり直しになる再追試だけは受けぬように予習と復習も怠らなかった。

 全ては卒業式直後に待っている、東京へのツーリングとその第一歩となる渋谷のフリーマーケットのため。


 ほぼ形だけの三学期末テストが終わった後も、補習は続いた。

 試験休みが始まり、もう卒業単位を取得した一般の生徒が来なくなってからも、学校に通わされて補習授業を受ける。

 ただ補習と追試を受けていればいいわけでも無かった。進学のために必要となる大学や奨学金財団の手続きはまだ残っていたし、引越し先を管理する不動産業者との書類のやりとりや、転居に伴う諸々の変更、そして何より旅行の準備、補習と色々な雑事で疲れた体で、この先に楽しい事が待っているという事実を自己確認するように、旅行バッグに着替えや必要な物々を詰めた。


 試験休みが始まってからの礼子は、さっそく山梨県内や隣県の林道をハンターカブで走り回り、自由を満喫していると、小熊が聞きたくもない自慢話を聞かせてくる。進学も就職もせず世界を放浪する積もりの礼子は、自由など高校卒業後に死ぬほど味わえるというのに、礼子にとって自由とは、今すぐ欲しくなるもので、僅かたりとも待てず、自分にあって当たり前であるべき存在。

 椎は父親のローバー・ミニや母のシボレートラックで、東京にある引越し先や進学予定の大学を何度も訪れている。父の親戚が所有するマンションに格安の賃料で住み、母の母校で恩師も居る大学に行くため、相応の挨拶回りがあるらしい。


 小熊にとって卒業式より意義のある、旅行出発の日は近づいていた。

 日々補習と追試をこなしていれば、前日に補習は終わる。小熊は自分に可能な範囲の予定を立て、自ら決めたタイムテーブルから外れないよう補習を消化し、追試を受けた。

 スーパーカブで目的地まで急ぐ時と同じだと思った。時間が切迫している時に必要なのは、スピードや近道ではなく、いつも走っている経路をいつも通りに辿る事。リスクの高い足し算に手を出すより、不測の事態という引き算を避けることが、最短の時間で目的地まで到着するという結果をもたらしてくれる。

 決められた納期までに必要な仕事を終わらせる。もしかして自分は補習や追試などに縁の無い他の生徒より、将来社会人になった時に役立つ事をしているのかもしれない。


 予定通り、卒業式前日に補習を終えた小熊は、晴れて卒業証書を受け取れる身になった。

 ゆっくり休めるわけでは無い。残していた旅行準備を翌日までに済ませなくてはいけない。

 荷物はもうパッキングを終えていた。あとは既に旅行に備え補習の間を縫って整備していたカブの点検。

 最近は通学以外で全然カブに乗れていなかった。そんな暇が無いというのは今も変わらないが、明日からの旅行でトラブルを起こさないためには、メンテナンスした箇所に異常が無いかチェックしなくてはいけない。

 学校から一度家に帰った小熊は、もう日暮れ過ぎの時間だというのに夕食も摂らず、軽い足取りでスーパーカブへと向かった。

 結局、カブに乗って走り出した小熊は、ひさしぶりに感じる振動や流れる景色、何より補習を終えた開放感ですっかり気持ちよくなり、山梨県内の国道を走りまくった末、家に戻ったのは真夜中過ぎだった。


 心地よい疲労感に包まれて眠った小熊は、目覚まし時計に起こされた。

 鳴りっぱなしのまましばらく寝ていたらしく、時計はいつも起きる時間より遅い数字を表示している。

 起き上がった小熊は少し急ぎ目に朝の準備を始めた。シャワーを浴び、今日を以って着るのが最後となる制服に袖を通し、ネクタイを締める。

 焼かない食パンにサーモン味のクリームチーズを塗り、グラスに注いだトマトジュースに緑のタバスコを垂らし、インスタントのカフェオレを淹れる。

 高校生としての最後の朝は、もうちょっと余裕のあるものにしたかったと思いながら、朝食を済ませた小熊は、制服ブレザーの上にライディングジャケットを着て、ヘルメットを被った。


 この朝さえも、明日からは変わる。東京に引っ越しても、高校から大学に変わるだけで学生である事は変わりないが、色々な物が高校生の時と同じでは無くなる。

 もうちょっと噛み締めたほうがいいのかと思ったけど、時間に追われていた事もあって、小熊は特に感慨を抱く事も無く玄関を出た。

 今日はこれからやる事が山ほどある。今までの自分を懐かしむのは、後で暇になった時、それともこれから何かをしようという動きを止めた時でいい。

 今は未来が忙しい。

 

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