第15話 高校卒業

 小熊、礼子、椎が高校を卒業する日。

 カブで東京に旅立つ日でもある今日の予定については、三人の間で意見が割れた。

 卒業式当日に行われる渋谷の大規模フリーマーケットが、夕方からの売れ残り品を狙うにしても、早い時間に行かないと良品を先に買われてしまうと知った礼子は、卒業式なんて無視して朝から出かけようと主張したが、椎は異論を述べる。

「えー高校最後の日に何にも思い出が無いのってさびしいよー」


 小熊としては卒業式には出席したかった。高校生活の終わりとしめくくりを迎える事で、自分の中で区切りをつけなくてはいけないと思ったし、昨日まで補習に付き合ってくれた担任教師に礼の一つも言うべきだという気持ちもあった。

 但しそれは何もする事の無い、何もしなくていい暇な人間の話で、小熊はとりあえず借りてはみたものの、家具も生活用具も無いガラン洞の木造平屋を、大学生活を送る事が出来る状態にしなくてはいけないという用事がある。

 今暮らしている日野春駅前の集合住宅にある家具は、四月に大学で入学式とオリエンテーリングが始まる直前にトラックを借りて運び込む事になっているが、それだけで足りる物では無い。

 部屋の規模や大学生という立場に合わせ細々と買い足さなくてはいけない物は多く、それらは引越し費用で散財した後の身には結構な出費となる。


 東京旅行も生活に必要な物を買い込むフリーマーケットも、行きたいから行くのではなく、行かなくてはいけないから行く場所。ならば高校生活への郷愁や感傷のような、余裕のある人間だけが楽しめる物を削らなくてはならない。

 正直、礼子の意見に傾きつつあった小熊は、本当にそれでいいのかと考えた。椎の言う通り、高校卒業に何の思い出も無いのは、将来自分がどういう人間になるのかを暗示するようで気分が良くない。淋しい大人になってしまうのではないかと思ってしまう。


 礼子と椎の相反する意見は、小熊の決定次第で一対一から一対二の多数決になる。事実上の決定権を押し付けられた感のある小熊の頭に、あまり思い出したく無い人間の言葉が浮かんだ。

 小熊がよく行っているバイク解体屋の縁で知り合った、成城の大学で民俗学の研究をしている准教授候補。名前を覚える気も無いので、着ているスーツや乗っているレクサスSUVの色から、小熊がマルーンの女と呼んでいる人間が、フィールドワーク中に研究対象を見つけた時の口癖。

「迷った時は折衷案」


 口伝や個人収蔵の文献を相手にするフィールドワークでは、必ずしも望んだ情報が手に入るとは限らない。口を閉ざす老人や、新発見ながら既存の研究に影響を及ぼす恐れのある資料が見つかった時、時間がかかっても押して粘って情報を入手し、それらを網羅した論文を完成させるか、準備不足を理由に研究を先送りするか、迷う局面はしばしば発生するらしい。

 そんな時、彼女はいつも現状で入手した資料や取材結果だけで、とりあえず論文を完成させてしまう。

 マルーンの女が自分の恋人と称する解体屋店主とは相反する考え。、彼はかつて山梨県内で猛威を振るった風土病が克服されるまでの経緯をくまなく調べ尽くすため、大学を離れ解体屋として山梨に根を下ろした。結局マルーーンの女は彼の元へ押しかけるような形で山梨に住み着き、小熊とは引越し先の手配などで縁があるような無いような関係が続いている。


 あの性格も話し方も、ついでに身に着けている物も好みに合わないが、独善的でエゴイスティックな行動については好感を持てぬまでも面白いと思い始めてきた小熊は、今回の卒業式で椎と礼子の希望を混ぜ合わせた折衷案を提示した。 

「卒業式には出よう。卒業証書を貰って、それからすぐに出る」

 小熊が横目で見た卒業式の予定表によれば、証書の授与は式の半ば。その後で式終了後の謝恩会などを放り出し、学校から直接東京に向かえば、昼前に出発して夕方のちょうどいい時間に到着できる。

 礼子と椎は二人とも、小熊の案に同意し、当日を迎えた。

 ひどく慌しい卒業式。後々になって思い出し、あるいは話のネタにする物としては、悪くない。


 当日、答辞と送辞が読み上げられる中、小熊と礼子、椎はスマホを使って打ち合わせを重ねた。

 山梨の日野春から東京の渋谷。少し前に椎の受験に小熊と礼子でついていった時とほぼ同じ単純な道順ながら、年度末の工事が幾つかの場所で行われている事をナビで確認した小熊は、迂回路をあれこれと立案したが、礼子が「道は走りながら決めればいい」と言ったので、それもそうだと思い、道順以外の予定を煮詰める。

「それでいいんですか?」と小熊と礼子の大雑把な思考に驚いていた椎に、小熊は答えた「そのほうが面白い」

 

 卒業証書の授与が始まった。出席番号順で椎が前半に呼ばれる。壇上に立っても着席した教師と同じくらいの身長しか無い椎は、背伸びして手を伸ばし卒業証書を受け取っている。

 こんな小さな子が無事高校を卒業し、大学生になるまでに成長したという事実を思い知らされ、小熊はなんだか妙な感慨を覚えた。

 何人かを挟んで礼子が証書を受け取る。もう気持ちは東京までのツーリングに行っているらしく、駆け上がるように壇上に登った礼子を見た校長は、授与の前に咳払いをして、礼子の緩んだネクタイや開けたボタンを指差す。

 礼子は誤魔化すように頭を掻き、ネクタイとボタンを直してやっと卒業証書を受け取る。


 出席番号では三人の中で最後になる小熊の名が呼ばれた。小熊は席を立ち、出席者が座る椅子の並ぶ横を歩いて壇上への階段を登る。

 礼子のようにみっともない真似は見せぬように、バイク便の仕事で客先に行った時の事を思い出しながら校長の前に立つ。校長は小熊を見て言った。

「黒姫でのボランティア活動について、分校の先生から個人的なお礼のお手紙を頂きました」

 ただ行儀よく壇上に立ち、紙を一枚貰うだけだと思った小熊は、普段から朝礼の時くらいしか顔を見ることの無い校長の言葉に少々面食らいながら返答した。

「大した事をしたわけではありません」


 校長は小熊に卒業証書を差し出しながら言った。

「あなたが怪我をされた事を心配していました。くれぐれも命と体を大切にしてください」

 小熊は深く一礼し、証書を受け取った。

 それから数人の生徒に卒業証書が授与された後、卒業生の退場が始まった、これから教室に移動し、担任教師からのお話の後、この高校から徒歩で行ける唯一のアミューズメントスポットである健康ランドの宴会場でで謝恩会が行われる。

 小熊と礼子、椎は一列に並んで歩く生徒たちの間から飛び出した。そのまま駐輪場に向かって走り出す。

 三人の卒業式はもう終わった。

 そしてこれから始まる。

 

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