第17話 街道

 三台のカブは、東京、渋谷を目指して国道二十号線を走った。

 新宿から長野県の松本までを結ぶ甲州街道は、カブに乗る三人にとって、日々の買い物や遊びに行く時に用いる道。

 小熊はスーパーカブに乗り始めて以来、ここで幹線道路の走り方を学んだ。整備、調整したカブの調子を見る時も、道が広く舗装が良く、心置きなく全開に出来る甲州街道だった、きっと礼子や椎もそうなんだろう。

 今日は天候に恵まれ、年度替り直前の昼にしては道が空いていて、道路状況はここ最近で珍しいくらい快適。

 なんだかこの道が、別れを惜しんで欲しがっているように見えた。


 これからも甲州街道を走る機会はそれなりに訪れるんだろう。まだ日野春の集合住宅に荷物を残しているし、役所に行く用もあるかもしれない。ただし次にこの道路を通る時は、家の近くの道ではなくなる。

 自分の一部のようなものだった道が、どこか遠くの道になる。ある日を境に家族から他人になる。バイクはそんな物を時々見せてくれる。これからもこういう事はあるんだろう。

 小熊は道路の幅や信号のタイミング、アスファルトの起伏まで知り尽くした甲州街道を、カブでじっくり味わうように走った。


 武川から韮崎、甲府、勝沼を経由して、笹子トンネルに向かう長い坂を登った。

 はじめてこの道は走った時は、カブ50の平地では充分ながら坂にはやや弱いエンジンに文句を言いたくなったが、今はブロック修正でピストンとシリンダーを高回転型にしたおかげで快適に登れる。もしかしてエンジン性能だけでなく、坂の走り方が上手くなったのかもしれない。


 バックミラーで椎を見た。あの時の自分が体験した苦労と苛立ちを味わっているのかと思いきや、電子制御燃料噴射のリトルカブは、小径タイヤのおかげもあるのか案外スムーズに登坂している。椎が余裕ある様子なのは、焦っても無駄な時は急がない彼女の性格もあるんだろう。

 それだけに若干危機感が薄いところもあるが、カブに乗るようになって以来、だいぶ鍛えられたように見える。 

 同じカブでも、得られる体験は一つじゃない。少なくとも先頭を走っている礼子のように、笹子の峠に来るたび山岳ゲリラになりきり、山道のあちこちを狙い撃つマネをするような楽しみを味わいたいとは思わないが。

  

 笹子トンネルで峠の向こう側に出た瞬間、空気が変わった。

 甲信越の南アルプスと八ヶ岳がもたらす硬質な空気から、関東の秩父と丹沢のやや柔和な空気に変わる。

 現在地は山梨県で、都県境まではまだ遠いのに、東京の味がした。

 山坂を降り、宿場町の風情を残す大月の市街地を抜けた小熊は、以前は恐怖の対象だったワインディングロードの走行を楽しんだ。今は恐怖にやや顔をひきつらせている椎も、あと少しすればそうなるのかもしれない。


 相模湖を通過し、週末は原付の走行規制が行われている大垂水峠を、前方を走る軽トラックに塞がれるような、先導して貰っているような形で上り下りしているうちに、いつの間にか東京に入った。

 高尾、八王子、立川、進むごとに周囲の建物の密度が増して行く。さっきまで緑の木々の間を走っていた三台のカブが、ビルに囲まれて走っているのが不思議な感じがする。

 これからはこの灰色の森との付き合いが多くなる。緑豊かな山梨の道に帰りたいとは思わなかった。道の左右に並ぶ建物。カブに乗ってなかった頃なら画一的な箱が並んでいるようにしか見えなかったのかもしれない。でも今は、この箱の中には色々な物が詰まっている事を知っている。

 だから箱を開けて中身を漁りに行く。


 昼夜を問わずトラックの動脈となっている甲州街道をひた走り、高井戸で都下から東京二十三区に入る。

 周囲にトラック以外の普通車が増えてきた。タクシーや一般のドライバーも見かけるが、一番多いのは白い営業車。

 都心での走り方にセンスのある椎が先頭になった。無理なすり抜けはせず、混雑でやや緩慢な他車の流れに合わせて走り、小熊と礼子を先導する。

 周囲の建物は密度を増し、地価の高いロードサイドの土地を一片も無駄にしないという勢いで、街道の左右を埋めている。

 新旧のビルや住宅の窓には白い灯りが点り、濃厚な人の営みが伝わってくる。

 きっと東京に住んでいれば、孤独を感じることなんて無いんだろう。

 孤独になる余裕さえ無いのかもしれない。


 首都高速四号のガード下を走り続け、新宿副都心に入ったあたりで、三台のカブは右に折れる。

 十二杜通りを南下して井の頭通りに合流し、広大な緑地の中を走った後、目的地の代々木公園に到着した。

 カブのエンジンを切って車道から歩道に押し上げた小熊は、カシオのデジタル腕時計を見る。フリーマーケットの終了まで充分な余裕がある、ほぼ理想的な時間。

 リトルカブのサイドスタンドを出し、シートから降りた椎は長距離走行の影響かふらふらしている。ヘルメットを取って頭を振った礼子は、ハンターカブを歩道の端に駐めて、今まで我慢していた物欲を満たすべく公園まで歩き出そうとした。


 小熊は短く鋭い口笛を吹き、礼子を呼び止めた。振り返った礼子に言う。

「どこに駐める?」

 小熊は代々木公園の正門前に着くまで、公園敷地に隣接した道路を走っていてずっと気になっていた。

 バイクを駐めるところが見当たらない。

 卒業式会場を飛び出し、意気揚々と東京に出てきた小熊たちは、早速東京の洗礼を受けることとなった。

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