第5話 ロブスター

 小熊が手に入れた三尾のロブスターは、湿潤環境を維持するためにまぶされたおがくずを洗い流され、なぜか礼子の家にあった寸胴のように大きな鍋で茹でられた。

 カナダのハリファクスから生きたまま空輸されたという触れ込みのロブスターは、発泡スチロールの箱の中に入っている時は生きているのか死んでいるのかわからないような緩慢な動きしか見せていなかったが、煮え立った鍋に放り込まれた途端に自力で鍋から飛び出すほど激しく動き、ロブスターを茹でる役を引き受けた礼子は無理無理無理無理!と後ずさりしていた。

 結局鍋から脱走したロブスターを椎が「せっかくのロブスターが痛んじゃいますよお」と言いながら掴み上げ、三尾のロブスターを無慈悲に鍋へと放り込んだ。


 椎は身体構造的に痛覚が存在しないというロブスターが暴れまわる鍋の蓋を押さえながら言った。

「こんなに大きなお鍋があるんなら、今度は活き蟹を茹でて食べたいですね」

 断末魔のロブスターが甲殻をぶつける音に、礼子は耳を押さえながら震えてたが、椎はそこらの海鮮レストランでは口に出来ない新鮮なロブスターの証拠といった感じで嬉しそうにしている。

 小熊はその間ずっと付け合せのベイクド・ポテトを作っていた。


 海外の多くの国では肉を焼く、あるいはエビを茹でるのは父親の仕事と聞いたが、家長失格らしき礼子にはテーブルのセッティングをさせた。

 礼子が一畳ほどもある2by4材の手製テーブルを布巾で拭いてナプキンを敷き、大皿とナイフ、フォークを並べ、三つのグラスに富士ミネラルの無糖炭酸水を注いだ。

 椎は茹で上がり完全に絶命したロブスターをトングで掴み出し、湯気を立てるロブスターを大皿に乗せた。小熊は真っ赤なロブスターの横にキノコとインゲンの炒め物と、オーブンレンジで焼き、十字の切れ目にカリカリになるまで焼いたベーコンとサワークリームを詰めたベイクド・ポテトを添える。


 これだけでは野菜不足だと思った小熊は、手早く作ったレタスとオニオン、トマトのサラダを盛った洗面器ほどの深皿をテーブルの真ん中に置いた。

 準備を終えた小熊は、いつも部屋でそうしているようにラジオを点けようとしたが、そのまま着席する。今日はラジオより騒がしい声の発生源が二つもある。

 礼子と椎も席につき、お互いの炭酸水のグラスを軽く当てた後、サラダとポテト、そしてロブスターの夕食を始めた。

 

 椎が以前に礼子のログハウスに来た時に作ったバルサミコ酢とオリーブオイルのドレッシングで食べるサラダも、最初は美味いのか疑わしかったバターソースで食べるロブスターも、付け合せのジャガイモやインゲンも素晴らしい味だった。

 三人ともロブスターの食べ方など知らなかったが、礼子がスマホに聞いたところ丁寧に教えてくれた。 

 要するに肉の中に埋まった骨をほじくり出す必要のある魚と違って、方法はどうあれ甲殻さえ剥げば中に詰まっているものは概ね食べられるらしい。


 尻尾を反らすように引っ張るとごっそり抜ける身にかぶりついた礼子は、唇をバターソースまみれにしている。椎は手を怪我しそうに鋭いロブスターのハサミを、通常使う専用のハサミ割り器の代わりにフォークの台尻で割り、ナイフでこじって中身を取り出している。手を怪我してでも食べたいといった顔をしていた。

 小熊もバターソースや食器棚から取り出した醤油をかけたロブスターを賞味した。ミソや卵も濃厚で美味だった。


 あの魚料理がやたら出る病院に入院していた時は、病院食も悪くないと思っていたが、こうして病院内では食べられないような物を食べていると、自分が自由の身になったことを感じる。

 腰椎損傷の治療が長引いて今も入院中の中村が、この買えば結構な値の張りそうなオマール・ロブスターを気前よくくれた理由が小熊にはわかった。

 小器用な中村なら病室で茹でて皆で食べるくらい出来たんだろうけど、このロブスターは外の世界の味が濃すぎて、それなりに満たされ幸せだと思っていた今の自分が辛くなる。


 椎もロブスターに食らいついていた。受験勉強中は心労で食欲不振だったという椎は、試験で自分に出来る事をやりきった事で体調を回復させたが、結果発表を目前に控えた今になって不安がぶりかえしてきた様子で、一昨日くらいから食事が喉を通らなかったらしい。

 椎は小熊たちを心配させまいと小熊や礼子の前では空元気を見せていたが、小熊が慧海に聞いたところ、椎は食欲が沸かないことより、一人になると不安に襲われるのが辛いと言っていた。


 空を飛ぶのが一番うまいのが鳥で、泳ぐのは魚。自然の中で多くの時間を過ごす慧海は物事の適材適所を見誤る事が無い。自分が椎に何かせずとも、小熊が椎の憂いを解決してくれると確信していた。

 そこまで慧海に期待されているなら、自分は空を飛び海を泳ぐトビウオにだってなってみようと思った小熊は、自分の退院祝いを自分で催すという行動に出た。

 ロブスターのハサミから垂れる汁を啜る椎を見る限り、食欲に関する問題は今のところ好転した様子。もう一つの懸念については、解決の方法はわからない。解決しなくてはいけない事なのかさえわからない。

 あと少しでやってくる卒業式。その後は小熊も礼子も、椎も自分の進路に向け動き出す。一人になる。


 それは今の自分たちにとってデリケートな問題だと思った小熊は、食事中も卒業式後の事を話題に出すことを避けた。

 礼子を見る。皿に残ったソースを全粒粉のパンで拭いていた礼子と目が合った。礼子も自分の気持ちをわかってくれているんだろうかと思った。

 ロブスターの汁とバターソースの染みたパンを頬張り、炭酸水で流し込んだ礼子は言った。

「春休みだけど、どうする?」

 そう、礼子はこういう奴だ。

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