第2話 復帰

 高校三年の三学期に、事故による骨折で一ヶ月の入院をしていた小熊は、退院したその日から動き始めた。

 溜まっていた所用の片付けや、授業の休みを取り戻す追試の予習、引越しの準備などに加え、入院生活中ずっとずっと引き離されていたカブのメンテナンスを入念に行い、たっぷりと走り回った。

 大学受験のためリトルカブで東京に行く椎を守るべく、自分と礼子でこっそり追尾するという奇妙な経験は、結局のところ杞憂による無駄足になったが、骨折によって鈍った勘を取り戻す役には立ってくれた気がした。

 退院から数日。小熊が学校の授業に復帰して最初の週末を控えた教室で、小熊は礼子に声をかけた。

「今日、家に行く。退院祝い」

 

 基本的にイベントの類が好きな礼子は興味をそそられた様子。

「ちょうど今、精肉場でバイトしてるから、サーロイン一kgくらいなら貰って来てあげるわよ」

 それが正当な方法で入手する物なのか小熊は大いに気になったが、とりあえず言うべき事は言っておいた。

「いらない。わたしが準備する。場所だけ貸して」 

 

「祝い事でステーキ以外に何があるってのよ」と訝る礼子の横から椎が顔を出す。

「パパとママが小熊さんの退院をお祝いしたいと言ってましたよ。あとこのあいだの、また私を助けてくれた事のお礼も」

 小熊も正直なところそれを期待していたが、今は椎が受験を終えて結果を待っているデリケートな時期だという事を考えて、昨日LINEで椎の母に直接遠慮を伝えていた。

 受験生の居る家では禁句となる単語が色々あると聞く。礼子みたいに息をするように失言を吐く奴を連れて行くわけにもいかない。


 実際、椎よりも両親のほうが合否を気にしていて、椎は受験直後に空気を読まぬ礼子が「落ちたらどうするの?」と聞いたところ、ソシャゲか何かのように「その時は浪人しちゃいます」と言いつつ、小熊の腕を掴んで自分に引き寄せた。

 椎の頭の中はもう、他人に何を言われようとも明るい大学生活で一杯なんだろう。それに、頭の何分の一かで、もし大学合格が叶わなかった時に、受験勉強をやり直す浪人生活をいかに楽しく過ごすかまで考えている。


 椎は小熊の腕をくいくいと引っ張りながら言った。

「このあいだスマホで見せてくれた小熊さんの新しい引越し先、すごく広そうでしたよね」

 小熊は自慢気分で椎に新居を見せたのは失敗だったかと思いながら、iPhoneXを取り出し画像を表示させた。

 都内の一軒家ながら賃料は安く、その理由らしき葬祭場と墓地に囲まれた旧い木造平屋を見た椎は、恐がると思いきや「この壁をラルフ・ローレンの青いペンキで塗り替えれば、私たちにぴったりの場所になりますね」と色々な事を勝手に決めている様子。


 バイクに乗っていると最良の結果を信じ、期待するようになる。だから物理的にありえない性能アップを宣伝するチューニングパーツに何度も騙される。それに加え最悪の事態を想定するようになる。避けえず起きてしまった最悪の事態に慣れるのがうまくなる。つい一ヶ月前の小熊自身がそうだった。 

 とりあえず、家の外壁のみならず内装や家具、やがては自分自身まで椎の色に塗り替えられたらたまらないので、椎の頭に手を置きながら言った。

「お父さんとお母さんに伝えておいて、合格が決まったらご馳走になりに行くと」


 合格発表されるまで小熊が家に来ないことに不満な様子だった椎は、自分の頭を両手の指でつついて何か考え事をした後、小熊に言った。

「じゃあ私が行きます。それならいいでしょ?」

 小熊は椎の香りの残る手で自分の頭を掻きながら言った。

「もちろんその積もり」


 高校三年二月のおざなりな授業は昼の早い時間に終わり、礼子と椎はカブに乗って各々の自宅に帰った。

 準備のため寄り道をする必要のあった小熊は、普段は駅方面に直進する牧原の交差点を右折し、甲州街道を走りながら少し考えた。

 この後で礼子のログハウスに集まることになっているが、特に約束もしない。三人はいつのまにかそうするようになっていて、いつもそうしている。行きたい時に互いの場所に行く。

 高校を卒業した後もそうなんだろうか、と思った。  

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