第28話 ホテル
小熊も礼子も椎も、旅行で最も重要な決め事であるその日の宿泊先については、今の今まで全く考えていなかった。
走っているだけで色々な物が目に入る東京の道に夢中になったからか、それとも今夜の宿という、その日の旅を終える地を決めたくなかったのかもしれない。
今日は幾ら遊んでも遊び足りない子供のようにカブで走り回ったが、山梨だけでなく東京でも都下では流れているらしき、夕焼け小焼けの屋外放送が聞こえてきた時、自分たちには帰る家が無い事を知った。
とりあえず寝場所だけでも確保しようと思った小熊は周辺を見渡す。工業、商業施設の多い町田南端は、目に見える範囲は泊まれそうな場所が無い。礼子がスマホで検索したところ、ここから少し走ればネットカフェがあるという事はわかったが、昨日もネットカフェに泊まった。今日も同じ経験をするのでは旅に出た意味が無い。
礼子も同じ考えらしく、ネットカフェより、現在地からすぐ近くの東名横浜インター周囲に幾つもある、派手なネオンのカップルホテルに泊まりたい様子。
スマホに表示された中世の城や豪華客船、あるいは極めて健全なホテルであるかのような建物に興味が沸いた小熊は、値段が折り合うならそこでもいいかと思ったが、椎が何かを思い出した様子でリトルカブ後部のボックスに積まれた旅道具を引っ掻き回した。
椎が取り出したのは、都心にある有名なホテルの宿泊券だった。曜日や部屋ランクの制約はあるが三人がタダで一泊出来るらしい。
「パパがわたしの大学受験のために用意してくれたんです。最初はパパとママが付き添って特急で行って、受験前日にホテルに泊まろうって話だったんですが、小熊さんたちのおかげでいらなくなったので」
東京の紀尾井町にある大学に一般受験で進学することを決めた椎は、自分でリトルカブに乗って受験に行くと言い張った。困った両親から相談を受けた小熊と礼子は、当日密かに椎のリトルカブの前後を走り、東京まで椎を守った。
椎は小熊たちの企みに早くから気づいていたらしく、結局のところ意味があるのか無いのかわからない行動だったが、椎は合格出来たのは小熊さん達とリトルカブのおかげだと言っていた。
「パパママと一緒に東京に来て、ホテルから受験に行ってたら、たぶん当日はそういう顔、そういう気持ちになっちゃってましたから」
確かに走るだけでリスクのあるバイクに乗っていると、目前に立ちふさがる物事を己の力で何とかしようという気持ちが沸く。
ただし疲れる上に時間は不正確。環境に配慮した世の中では何かと風当たりが大きいなどという問題もあるが、人間の能力というものは、それらの障害を解決し、自らの決め事を守り、実行するためにある。
椎が見せびらかす宿泊券をひったくった礼子は、記載内容を見ながら言った。
「今夜泊まるなら急がないと。レストランとか閉まっちゃうわよ」
椎は自分で無料券を出しておきながら不安そうな顔をした。
「これ満室だと使えないんです。先に空き部屋の確認をしたほうが」
小熊は何も言わず、ただ自分のカブのシートを叩いた。
もしホテルに泊まれなくても、カブがあれば東京を縦横に走り回り、他の宿でも何でも探すことが出来る。
椎は目を輝かせ、リトルカブのシートを叩く。礼子はハンターカブのリアボックスを叩いた。あれはきっとホテルを締め出されたら日比谷公園にでもテントを張ってキャンプしようと考えている顔だろう。
新たな目的地を得た小熊たちは、カブに乗って走り出した。
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