第24話 江戸川

 東京のラーメンとスイーツで充分すぎるほどの栄養を補給した小熊と礼子、椎は、カブで渋谷の街を出た。

 昼間はひどく窮屈だった道路が、今は車もバイクもほぼ見当たらない。夜の東京を我が物顔で走るタクシーの数が減り、東京の膨大な消費を支える物流トラックが本格的に動き出す前の、ごく短い凪の時間。

 礼子がハンターカブのスロットルを全開にして、三台の先頭に出た。そのまま小熊と椎を置いてどんどん先行していく。

 これほど広く舗装も良好なのに、他の車とバイク、歩行者が障害物となって思うまま走れない、昼の東京でだいぶフラストレーションが溜まっていたらしい。

 

 小熊は自分がまだよく知らない街と道であることを考え、危機を察知できるスピードを守りながら礼子を追う。ハンターカブは礼子が勝手に曲がった道の先で、とっくに姿は見えないが、静寂に包まれた早朝のビルに反射反響して聞こえてくる、特徴的な改造マフラーの音で、だいたいの場所はわかる。

 椎がリトルカブで後ろから小熊を煽ってきた。東京に来て以来ずっと人と車の密度から生まれる淀んだ空気を吸っていた椎は、夜更かしな街が短い眠りにつく時間の冷たく澄んだ空気を、少しでも多く吸い込もうとしていた。

 小熊も釣られたようにスロットルを開ける。幹線道路に並行する線路では、始発電車が動き出す直前の気配が伝わってきた。


 小熊は今まで、街の中を移動する要においてバイクは、あらゆる交通機関の中で最も迅速な手段だと思っていたが、バイク便のバイトが縁で知り合った東京の人間から聞いた話によると、都心部だけは別物らしい。

 狭苦しい道路はすりぬけも出来ぬほど混雑していて、ほんの少し走っただけで信号に引っかかる。バイクをいい稼ぎ種とばかりに狙い撃ちにする警官も多く、いざ目的地に着いても、今度はバイクを駐める場所に困るというのは、小熊も昨日経験したばかり。

 ビジネス等の急な届け物を運ぶバイク便ライダーは都内にも居るが、都心のオフィスや官庁街などでは、ハンドキャリーと呼ばれる公共交通機関を用いて徒歩で荷物を送り届ける方法が着々とシェアを広げていると聞く。


 この街でバイクは最も速い乗り物じゃない。東京のまことに不愉快な事実には例外があることを知った。今この時間。夜の街が動きを止め、朝の街が動き始める、ごく短い時間だけ、バイクは都心部のいかなる移動手段をも上回るスピードで、あらゆる場所へ到達する事が出来る。

 小熊は黎明の街を走りながら思った。もし東京での暮らしに少し疲れたら、この時間に走りに行けばいい。夜明け前の素晴らしい時間は毎日やってくる。


 先行する礼子を追う形で、渋谷から四谷を経由して靖国通りに入り、神田、両国を通過した。名前を京葉道路に変えた道をそのまま東進する。広く直線的な道路は信号のタイミングも調整されていて、快適に走ることが出来た。

 途中で隅田川、荒川を橋梁で越え、江戸川に近づいたあたりで、礼子が後ろに合図してハンターカブを道端に停車させた。

 小熊と椎もカブを停める。礼子は前方を指差しながら言った。

「東京の端っこ!」

 小熊はスマホを見た。この先に横たわる江戸川の中間地点が、東京と千葉の境界線。

 東京の最東端はもっと別の所にあるそうだが、小熊の目につく範囲では、東京都地図のいちばん右に居た。


 椎は目を凝らして橋を見ながら言った。

「あの向こうってどうなってるんですか?」

 小熊も千葉県という所にはまだ行った事が無い。礼子が当たり前のように言った。

「東京の外側でしょ?そりゃ無人の荒野に決まってるわ」

 いくら何でもそれは無いと思ったが、今自分の居る世界、その外側がどうなっているかなんて誰にもわからない。スマホや本で見ることの出来る地図や映像は情報に過ぎない。自分自身の感覚が認識したわけではない。

 小熊、礼子、椎の三人は、当然のごとく即決した。

「見に行ってみよう」

 

 ここまで走ってきた京葉道路は、江戸川を越える少し手前から原付の走れない自動車専用道になる。一般道区間のほぼ終点に居た小熊たちは、スマホで道を調べて江戸川の下流側にある行徳橋まで迂回して、都県境を越えた。

 まだ夜が明けぬ前の暗い川を渡り、千葉県市川市に入った小熊は、一体どんな世界が広がっているのかと期待しながら周囲を見回した。

「まぁそうだよね」

 幹線道路の周囲は、今まで走ってきた東京と変わりなかった。ビルと住宅、工場や店舗でロードサイドは人工物で切れ目なく埋め尽くされていて、少し早く家を出た社会人や学生が歩いている。


 とりあえず見る物は見たので、来た道を引き返して再び東京に入る。やはりさっきまで居た千葉と同じような景色。ここまでハイペースで走ってきた小熊は、礼子に合図で休憩を伝えた。

 礼子がコンビニを見つけてハンターカブを乗り付ける。東京のコンビニもここまで来ると駐車場があって、昨日行った代々木の都心らしく省スペースなコンビニより、地元で見慣れたコンビニに近い外見をしている。

 カブを駐めて三人で店に入った。まず飲料の棚に行く、バイクに乗っていると喉が渇くのは、夏も冬も変わらない。夏は発汗で、冬は乾燥した空気で水分が失われる。ドリンクホルダーに入れられたペットボトルのお茶はまだ半分ほど余裕があるが、その半分を飲みきった時に新しいお茶を買えるとは限らない。


 小熊は詰め替え用の予備のお茶を買った。椎はレジ前でいい匂いを発てているコンビニコーヒーに少し惹かれた様子だったが、もう今朝のコーヒーはさっき渋谷で飲んだことを思い出したらしく、小熊と同じく紙パックのお茶だけ買う。

 つい一時間少々前に満腹になったばかりなのに、肉マンや揚げ物、おでんの誘惑と戦っていた礼子は、外を見た。これから行く先にもっと美味しい物が待っている事を期待し、今は我慢することにしたのか、ペットボトルのミネラルウォーターを買う。


 三人で飲み物だけを買ってコンビニを出た。再びカブに乗って慌しく走り出す。

 冬の遅い夜明けはまだ来ないが、そろそろ朝の車が動き出す。通勤と物流の車で混雑が始まる前に、都心部を通過したかった。

 東京の東端はもう見た。少なくとも境界の向こうは人跡未踏の秘境では無く、東京と一繋がりの世界である事を自分の目で確かめた。

 今度は西の果てがどうなっているのか、探究しに行かなくてはならない。

 

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