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4月21日(Mon)午前9時


 香道なぎさが早河探偵事務所に勤務して2週間になる。なぎさは東京メトロ四谷三丁目駅を出て事務所に向かっていた。

現在は実家から事務所のある四谷に通勤しているが、独り暮らし先の新居は決まっている。探偵事務所から徒歩数分のマンションに来月上旬には入居できる予定だ。


 早河の事務所で働く条件として提示された両親との話し合いは難渋した。早河と一緒に実家に帰り、彼が事務所の仕事内容を両親に説明していたが父の正宗は渋い顔をしていた。

早河の助手となり探偵事務所で働くことに正宗は難色を示し、最後まで首を縦に振らなかった。


 それでも新居の内見に同行したり多少の金銭的援助も考えてくれたりと、渋々快諾した形だ。母の友里恵も猪突猛進の娘に半分呆れ、半分応援してくれている。


 こうして探偵の助手とフリーライターの二足のわらじとなったなぎさの社会人2年目がスタートした。


 慣れた足取りで探偵事務所に辿り着く。事務所の側にある公園の桜はすでに散ってしまい、間もなくゴールデンウィークだ。

今年の春は花見を楽しむ余裕もなかった。ゴールデンウィークは引っ越しに当てるため友達と遊ぶ計画もない。


 合鍵で二階の探偵事務所の鍵を開ける。早河は事務所にいない時も多い。今日もガレージに車がなかったから出掛けているようだ。

上司がいるようでいない状態なので出勤時間も退勤時間も決められていない。なぎさの判断で午前9時出勤の午後5時退社にしてある。


 仕事内容は事務所の掃除、電話番、書類作り、仕事がない時はここでライターの仕事をしてもいいと許可されている。なぎさのアイデアで探偵事務所のホームページも作成した。

ほとんどが雑用、事務所の電話が鳴ることも多いとは言えない。しかしここに居ること、早河の仕事を手伝うことが今の自分にとって意味のあることだ。不思議と出版社勤めの頃よりも毎日が充実していた。


 昼頃、近くのコンビニで昼食用のサンドイッチを買って事務所に戻る途中に携帯が鳴った。外出中の早河からだ。


{今夜、予定あるか?}

「特には……」

{じゃあ仕事終わっても帰らずに事務所で待っていてくれ。18時にはそっちに戻れると思う}

「わかりました」


 必要な要件だけを言って早河はさっさと電話を切ってしまう。早河から夜の予定を聞かれるのは初めてのことだ。


(なんだろう。デートのお誘い……なわけないか)


 なぎさが助手となってからは早河との関係性も上司と部下の関係に変わった。これまでの〈香道秋彦の妹〉として接していた態度とはまるで違う。

早河のなぎさの呼び方も〈なぎさちゃん〉から〈なぎさ〉となった。


(あの頃の優しさはどこへ消えた? ってくらいにぶっきらぼうで人使い荒いんだもん)


 コンビニの袋をブラブラと提げて事務所の道のりを歩く。4月も後半に入る今日の天気は快晴。外を歩いていると汗ばむ陽気だった。


(でも今の所長の方が素が出てる気がするからいいんだけどね)


なぎさの早河の呼び方も〈早河さん〉から〈所長〉に変わった。1年前とは環境が様変わりしている。

きっとこれからも、何かが変わり続ける。


 早河の指示通りに退社時刻を過ぎてもなぎさは事務所に残った。手持ちぶさたにネットサーフィンをしているとまた携帯が鳴った。今度はメールだった。

下にいるから降りてこいとのメールだった。まったく、本当に人使いが荒い上司だ。


 事務所を施錠して螺旋階段を降りる。表には早河の愛車が停まっていて、なぎさを待っていた。早河は助手席になぎさを乗せて夜を迎えた街に繰り出した。


「どこに行くんですか?」

『会わせたい人がいるんだ』

「会わせたい人?」


 彼は多くを語らずハンドルを操っている。車は六本木方面に向かっていた。


 六本木界隈の駐車場に車を駐め、早河となぎさは六本木の路地裏に入った。六本木の狭い通りには入ったこともないなぎさは右も左も怪しげなネオンが光る飲み屋街の雰囲気に圧倒される。

早河の後ろをついて行くが、どこに連れて行かれるかもわからず不安が大きくなった。


 路地裏の一角にその店はあった。地下に向けて大きく口を開く入り口とその下に伸びる長い階段。早河は躊躇なく階段を降りていく。なぎさも戸惑いつつ彼に続いて傾斜が急な階段を降りた。


地下に続く階段を降りると、行く手に金色の取っ手のついた木製の扉が現れた。早河が扉を開けた途端にむせかえるような、例えて言えば甘ったるい花の香りが鼻をかすめた。


 店内にはビリヤードやダーツができるスペースがあり、男性客が酒を片手にゲームに興じている。露出した派手な衣装の女がステージで扇情的に踊っていた。


(なにここ……。バー? パブ? えっと、バーとパブの違いってなんだっけ? こういう所はキャバレーって言うの?)


まさかこんな“いかがわしい”店に連れて来られるとは思わず、なぎさは横に立つ早河を見上げる。彼はカウンターにいる人物に片手を挙げていた。


「ジンちゃーん! いらっしゃーい」


 カウンターの内側で早河を出迎えたのは女性……ではなく女装をした中年の男。


『ママ。タケさんは?』

「いつもの部屋よぉ。あら、その子、ジンちゃんの新しい女ぁ?」


ママと呼ばれたその人は声も男性そのもの。ウェーブした栗色のロングヘアーはウィッグかもしれない。


『違うよ。この前話した助手の香道なぎさ』

「……はじめまして」

「ああ、家出して雇ってくれー! って押し掛けてきた世間知らずの例のお嬢ちゃんね」


ママ(?)の品定めするような視線がなぎさの全身を巡る。なぎさは色んな意味でママの敵意を感じて萎縮した。


「ま、いいわ。二人で行ってらっしゃい」


 ママが早河にクレジットカードに似たカードを渡した。そのカードの正体を早河に訪ねる暇もなく、彼が先に歩き出す。


『なぎさ、行くぞ』

「あっ、はいっ!」


 ステージで踊る女の前を通過して二人は店の奥に足を進める。奥に大きな鉄の扉があり、扉の横にはカード差し込み口とテンキーがついている。高級マンションのオートロックさながらの厳重さだ。


 早河がカード差し込み口にママに渡されたカードを差し、4桁の暗証番号を打ち込んだ。解除音と共に鉄の扉が自動でゆっくり開かれる。

早河が会わせたい人間がこの向こうにいるらしい。中で誰が待っているのかなぎさには想像もつかない。


早河となぎさが鉄の扉の内側に入ったのをセンサーで確認した扉はまた自動でその口を閉ざした。

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