4-9
9月7日(Fri)午後4時
台風9号が九州に近付いている影響で東京も朝から雨が降っていた。ロケの予定があった本庄玲夏はこの雨天でロケは中止、スタジオ撮影も早々に終わった。
今日は元々早河の家を訪れるつもりだった玲夏は少し予定を早めてタクシーで彼の自宅がある広尾まで向かう。
広尾の商店街で夕食の材料の買い物をする玲夏は長い髪をひとつにまとめてキャスケットの中に入れ、赤いフレームの伊達メガネをかけていた。誰も彼女が女優の本庄玲夏だとは気付かない。
まだ夕方の4時だが黒い雲に覆われた街はどんよりと暗い。
(あいつ、ちゃんと栄養のあるもの食べてるのかな。人のことばっかりかまって自分を粗末にする癖があるから……)
広尾の商店街から早河の自宅までは徒歩5分ほど。買い物袋を提げて歩く玲夏の水色の傘に雨が降り注いだ。
築年数18年のアパートの階段を上がり、廊下の一番奥の部屋を合鍵で開けた。
電気のついていない六畳二間の室内は薄暗い。主が留守の部屋の空気は埃っぽく澱んでいる。
まずキッチンの電気をつけると目に飛び込んできたのは脱ぎ捨てられた服、煙草の吸殻が山盛りになった灰皿、空になって積まれたカップ麺の容器。
(予想通り。仁は一度荒れると何もかもがどうでもよくなる性格なのよね)
脱ぎ捨てられた服をまとめて洗濯機に放り込み、米を研ぎ炊飯器のタイマーをセットする。外は雨が降っているが網戸にして換気をした。たちまち雨の匂いが室内に薫る。
(香道さんが亡くなってここまで壊れちゃうなんて……。それに仁はそれだけじゃないもんね。昔の友達がお父さんと香道さんを殺したことが相当堪えてるんだ)
掃除機をかけていた玲夏は床に落ちていたレシートを見つけた。
レシートの日付は9月2日。甘いものが苦手な早河には似合わない洋菓子店のものだ。彼はここでケーキを4つ購入している。他に花屋のレシートもあった。
「今日もまた妹さんの所に行ったのかな」
レシートに載る購入品が誰のためのものか玲夏は知っている。彼女はレシートをゴミ箱に入れて溜息をついた。
香道の妹が自殺未遂したことは早河から聞いている。早河が毎日、妹の見舞いに行っていることも。
早河との電話で話題になるのはその妹のことばかり。彼女が少しずつ元気を取り戻していくのがよほど嬉しいらしい。
玲夏は気付いた。自分は香道の妹に嫉妬している。早河が他の女のことで一喜一憂するのに苛ついて、最近は早河の話の半分は聞き流していた。
早河は自分のせいで香道秋彦を死なせたことを悔やんでいる。兄を亡くした妹の力になりたい、励ましたい、彼の気持ちは理解しているのに。わかっているはずなのにそれさえも許せなくなっていた。
味噌汁も煮物も自然と早河の好みの味付けで作ってしまう。玲夏は自分はあまり男の影響を受けないタイプだと思っていた。過去に付き合った男達の影響を彼女は感じた経験がない。でも早河は違った。
玲夏の世界の至る所に早河は入り込んで足跡を残す。早河に刻みつけられた彼の痕跡に玲夏は捕らわれて離れられなくなる。
煮物の匂いが漂い始めた頃、鍵の開く音が聞こえた。
「お帰りなさい」
『ああ……早かったんだな』
帰宅した早河の髪や服は濡れていて彼からは雨の匂いがした。玲夏はずぶ濡れの早河にタオルを渡す。
「雨で撮影中止になったの。すごい濡れてるけど傘差して来なかったの?」
『めんどくさい』
早河はタオルで顔を拭い、その場で濡れたワイシャツを脱ぎ捨てた。タンクトップと部屋着のズボンに着替えた彼は濡れた髪を乱暴にタオルで吹いている。
「雨に濡れて風邪引けば余計にめんどくさいことになるでしょ」
この男の退廃的な性格はどうにかならないだろうか。玲夏は呆れ顔で早河が脱いだ服を集めた。
『……玲夏』
集めた服を洗濯機に運ぼうとしていた彼女を早河が後ろから抱き締める。彼の身体から感じる雨の匂いがさらに濃くなった。
身体に回された腕
背中越しに感じる胸板
髪に押し付けられた鼻先
全身から“彼”を感じて愛しさが込み上げる
でもどうして?
こんなに愛しいのに泣きたくなるの
『俺……警察辞める』
背後で聞こえた彼の声は弱々しくて今にも消えてしまいそうだ。
「……辞めてどうするの?」
玲夏の声も震えていた。勘の良い彼女はこれから先に続く言葉を予感していた。
『親父と同じ道を行く。警察を辞めて探偵になる。四谷に親父が探偵として使ってた事務所がまだ残ってるんだ。とりあえずそこ借りて、貴嶋を追う。このまま警察にいても俺は何もさせてもらえない』
先程の弱々しい声から一転、今度は力強く迷いのない彼の声。外で降り続く雨の音が強まった気がした。
『玲夏はこの先どうしたい?』
腕の拘束が解かれて玲夏は早河の方へ身体を反転させられる。彼と向き合い、見つめ合った。
「どうしたいって……?」
『お前はこれから女優としてもっと活躍していく。だから……』
「だから別れた方がいいって? それが私のためだって言いたいの?」
崩れていく。何もかも。
『俺に玲夏の人生を縛る権利はない。玲夏がもしまだこんな俺についてきてくれるなら別だけど……。お前も身勝手な俺に付き合うのもそろそろ限界じゃないか? 俺の飯作ったり部屋掃除したり……“本庄玲夏”はダメな男の世話焼いてる場合じゃないだろう?』
早河は優しく微笑んで玲夏から離れると、傍らのソファーに座った。彼女を見上げる早河の瞳は彼女の心情を見透かしているようだ。
玲夏の心の
他人を優先にしていつも自分自身を粗末にする彼
彼のそんなところに惹かれているのに
彼のそんなところがたまらなく嫌だった
誰かのために必死になる彼が嫌いだった
嫉妬と独占欲で渦巻く自分が嫌いで、彼のことを愛している“本庄玲夏”である自分が嫌いだった
私以外の人に優しくしないで……いつもそんな風に思っていた
「仁は私と別れて平気なの?」
こんな台詞、今時のドラマでも言わない。
『俺は自分のことで手一杯だ。……いや、見ての通り自分のことすら満足にできない有り様だ』
憎らしいくらいに彼が優しく笑うから、今まで必死に保っていたものが全て崩れてしまった。
「自分のことで手一杯なくせに香道さんの妹の世話は甲斐甲斐しく焼くのね」
違う。本当はこんな嫌味が言いたいわけじゃないのに。自分がどんどん嫌な女になっていく。
黙ってこちらを見る彼の視線が痛い。
「ずるいよ。私を試して私に選ばせるなんてホントずるい……」
抱えていた早河の服が床に落ちる。玲夏はソファーに座る早河の膝に顔を埋めた。
早河の手が玲夏の震える肩に添えられる。
「ごめんなさい。私にはもう……仁を支えることはできない。こんなに壊れたあなたを見ていることができない。香道さんの妹さんのお見舞いに行くのも本当は嫌だった。妹さんに嫉妬したの」
『ごめんな。玲夏の気持ち考えてやれなかった』
玲夏の頬に流れる涙。早河の手が優しく彼女の頬に触れた。
――あなたはどこまでも優しい
私の醜い心の扉が開かれても、まだこんなに私を優しく撫でてくれるから、離れたいのに離れられない……
これから別れようとしているのに、優しく優しく、雨の味のするキスをして二人はベッドに倒れ込む。軋むベッドの下に落とされる二人分の衣服の残骸。
玲夏の身体に早河が沈み、早河の身体に玲夏が沈んだ。乱れる互いの息、汗と雨に湿った肌の感触も彼の匂いも、繋がりから溢れる快楽もすべてを忘れないように、玲夏は無我夢中で彼にしがみついた。
外の雨の音などもう二人には聴こえない。
何度も何度もキスをして、何度も何度も抱き合って、シーツには二人分の汗と涙と雨の匂いが染み込んだ。
最後の二人きりの世界に迷い込んで
サヨナラ、とお別れするために
最後の愛を求め合った。
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