4-8

 9月になっても暑さが和らぐことはなく、今朝のニュースでは今後も厳しい残暑が続くと気象予報士が言っていた。それでも9月に入った途端に空の色は8月の色とは異なって見え、爽やかな青空を背景に建つ巨大な建物を早河は見上げた。

なぎさが入院している病院だ。


おとといも昨日も病院を訪れたが病室の前で門前払いで会ってもらえなかった。今日も会ってもらえないかもしれない。


 ここに来る前に立ち寄ったケーキ屋の袋を提げて病院のエントランスを通る。この店のケーキが女の子の間で人気だと矢野に聞いて、開店と同時に並んで購入した。

今日もなぎさには会えなくても、ケーキは母親の友里恵が受け取ってくれるだろう。昨日渡した花束も友里恵が受け取ってくれた。


 日曜日の病院は閑散としていて人もまばらだ。医師や看護師の姿も少なく、病院全体の空気がゆったりしている。

なぎさの病室のある階でエレベーターを降り、病室の前で立ち止まった。ノックをするといつものように友里恵が扉から顔を出した。


「早河さん、どうぞお入りください」

『でも……』

「なぎさが会いたいと言っています。私はデイルームにいますね」


 彼は拍子抜けした。てっきり今日も会ってもらえないと思っていた。友里恵は廊下に出て、病室の前で立ち尽くす早河を残して廊下を歩いていった。

入室を許されなかった病室に足を踏み入れる。仕切りのカーテンを少し引くとベッドにいる女性と目が合った。


『なぎさちゃん、久しぶり』


 ベッドの上で上半身を起こしているなぎさは早河を見てもにこりとも笑わず、窓に目を向けた。話をしてもらえなくてもいい。部屋に入れてもらえただけでも進歩だろう。


花瓶には昨日、早河が見舞いに持ってきた花が生けられている。ふたりきりの病室はとても静かだった。


 なぎさの目に力はなく、やつれたように見える。先月渋谷のカフェで会った時は不倫の恋にケジメをつけて生き生きとした表情をしていたのに。あの時はまだ妊娠に気付いていなかったのだ。


『部屋に入れてくれてありがとう。これ、なぎさちゃんの好きなものわからないから、大したものじゃないんだけど人気のケーキらしくて……ここに置いておくね。よければお母さんと一緒に食べて』


ケーキが入る箱を冷蔵庫の隣の棚の上に置いた。彼女はそれをチラリと見てすぐに目をそらす。


『他にも欲しいものがあれば何でも言って。と言っても俺、安月給だからあんまり高いものは買えないけど……』

「どうして?」


 早河の言葉に重なってなぎさが初めて声を発した。小さな声だった。


「どうして私に会えないってわかってるのに来るの? 昨日もその前も……」

『なぎさちゃんが心配だからだよ』

「心配? 罪滅ぼしのつもり? それとも同情?」


感情のなかったなぎさの瞳が潤んでいる。厳しい言葉を浴びせられるのは承知の上だ。

早河はベッドに近付き頭を下げた。


『罪滅ぼしと言われるのならそうかもしれない。俺にはこんなことしかできないから。でも同情じゃない。なぎさちゃんが心配なんだ。それだけはわかって欲しい』

「なんでも欲しいもの言ってって言ったよね? 私が欲しいもの言ってあげようか。お兄ちゃんだよ。なんで……なんでお兄ちゃんが殺されなくちゃいけなかったの? ねぇ、早河さん! お兄ちゃんを返してよっ……!」


 なぎさはベッドの横に立つ早河の胸元を拳で何度も叩いた。その手首には痛々しく包帯が巻かれている。

早河はなぎさの手を止めずに彼女にされるがまま、なぎさの怒りと悲しみを受け止めた。

これしかできないから。この痛みを背負うことしかできないから。


『俺も親が二人とも死んでいるんだ。母さんは3歳の時に、親父は高校の時に死んでる。兄弟もいないから天涯孤独ってやつなのかな』


 泣きわめくなぎさの背中をさすりながらポツリポツリと言葉を紡ぐ。なぎさの肩がわずかに揺れた。


『それでも俺によくしてくれる人が沢山いて、家族は早死にしたけど周りの人には恵まれたのかもしれない。他人に無関心なこんな俺を気にかけてくれる人が沢山いたんだ。香道さんもそうだった』


兄の名前が出てなぎさは顔を上げた。早河は微笑して、枕を立て掛けたベッドの背になぎさの身体をそっと預けた。


『香道さんはいつも俺を気にかけてくれた。勤務後によく一緒にラーメン食べに行ったりしてね。刑事としても人間としても見習いたいところが多くて、本当に尊敬できる先輩だった。なぎさちゃんからすればふざけるなと言いたいと思うけど、俺にとっても香道さんは兄みたいな存在だった』


 泣き止んだなぎさは早河の話を黙って聞いている。早河はベッドの側の椅子に腰掛けた。


『約束するよ。香道さんのかたきは必ず俺がとる。俺がやらなくちゃいけないんだ。何をしてでも』

「早河さん……」


なぎさは言葉が見つからず、困惑して早河を見つめる。早河は優しく微笑んだ。


『俺が香道さんの仇をとるのをなぎさちゃんには見届けて欲しい。そのためにも君は生きて。これ以上自分を傷付けてはダメだ。なぎさちゃんが泣いてばかりだと香道さん、シスコンだから心配で成仏できなくて、幽霊になってその辺うろついてるかもしれないよ?』

「……お兄ちゃんならありえるかも」


なぎさが少しだけ笑顔になった。その顔を見れただけでもここに来た意味はある。


 そのあと途切れ途切れに会話を交わし、早河が持ってきたケーキをなぎさが食べているところに友里恵が病室に戻ってきた。


なぎさと友里恵にまた来ると告げて早河は病院を後にする。明日は停職が明ける日。

2週間振りの職場復帰が迫っていた。


        *

9月3日(Mon)


 警視庁の地を踏んだ早河は笹本警視総監に呼ばれた。笹本は門倉元警視総監時代に副総監だった男だ。

警視総監室に入ると笹本が早河に警察手帳を渡した。


『今後、犯罪組織カオスの捜査は禁ずる。わかったね?』


一礼して部屋を出ようとした早河は足を止めて振り返る。デスクにいる笹本がこちらを睨み付けていた。


『理由を教えていただけますか?』

『理由などない。カオスにも貴嶋佑聖にも君は関わらないように。それだけだ』


 早河と笹本の睨み合いが数秒続く。相手は警視庁トップの警視総監だ。従わなければどうなるか、そんなものくそ食らえだ。


『辰巳は安田元総理の曾孫らしいですね。つまり辰巳の息子の貴嶋も安田家の血筋。警察も結局は政治と金ですか』


 笹本に吐き捨てて早河は警視総監室を出た。再び手元に戻ってきた警察手帳を見つめる。この組織に囚われている限り、自分も組織の小さな駒に過ぎない。

それならば……。


警察手帳をスーツの胸ポケットにしまう。


(どうしたって俺は親父と同じ道を生きる運命なのかもしれない)


 覚悟ならすでに決まっていた。

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