4-7
2週間の停職期間、早河は矢野から渡されたUSBの内容を頭に叩き込んだ。USBには父、早河武志の遺した犯罪組織カオスについての詳細なデータが記されていた。
父の資料によれば、辰巳佑吾をキングとする時代のカオスにはスコーピオン、ケルベロス、ラストクロウの呼称を持つ側近がいた。
側近達にはそれぞれ役割があり、スコーピオンは暗殺、主に射撃を得意とする。
ケルベロスは実行部隊、カオスと敵対する暴力団の制圧や殺人教唆を行っていた。
ラストクロウは情報収集と情報操作。政財界に多くのコネクションを築いていた。
辰巳の息子の貴嶋がこの流れを継いでいるとすれば、少なくとも3人の側近がいることになる。現に、去年静岡で何者かに狙撃され海に転落した男は通称をラストクロウと呼ばれていた。
捜査資料の最後を父はこう締めくくっている。
――“カオスは人の心の闇に入り込み闇を増幅させる”――
8月最後の夕焼けが空に広がっている。9月になってもまだまだ暑いのに今日で夏も終わりと感じてしまうのは8月31日が夏休み最後の日であった学生時代の名残なのか。
自宅のベランダで早河は夕陽を眺めて一服する。近所の子供達が走り去る姿が見えた。夏休み最後の日を目一杯楽しんだ子供達は今から家に帰るのだろう。
網戸を隔てた室内で携帯電話が鳴っていた。煙草をくわえたまま、ものぐさな動きでベランダから室内に戻る。
停職期間中に仕事の連絡はなく、あるとすれば矢野か、玲夏のどちらかだ。しかし鳴り響く携帯の着信表示は矢野でも玲夏でもなく上司の上野警部だった。
{香道の妹さんが自殺未遂を図ったそうだ}
『なぎさちゃんが?』
その知らせに惰眠を貪っていた頭も一気に覚めた。
{手首をカミソリで切ったらしい。幸い、傷は軽傷で命に別状はない}
上野はなぎさが入院している病院の住所を早河に伝える。早河は手近にあった広告の裏面に住所をメモした。
{妹さん中絶したんだってな}
『相手が既婚者だから堕ろすことにしたと、お父さんが言っていました』
煙草の始末を終えて車の鍵と病院のメモを持って玄関を出た。
{兄が殉職した直後に望まない妊娠、衝動的に自殺を図っても不思議じゃないな。今から行くのか?}
『俺が行ってどうにかなる事ではないですけど……なぎさちゃんが心配なんです』
アパートの外階段を降り、道を挟んだ向かいの駐車場に停めた自分の車に乗り込んだ時、電話越しに上野の溜息が聞こえた。
{所轄から事件性なしの判断で報告が上がっている。自殺と考えて間違いない。くれぐれも慎重にな}
『はい』
*
なぎさの入院する病院は目黒区の総合病院、病棟は外科。総合受付でなぎさの部屋番号を聞いてエレベーターで外科病棟に上がった。
考えてみれば見舞いの品も何も持たずに手ぶらで来てしまった。病院の面会終了時間も迫っている。
見舞いはまた日を改めた方がいいのではないかと思案しながら、いつの間にか目的の病室に到着していた。
大部屋ではなく個室だ。部屋番号のプレートの下にはなぎさの名前が書かれていた。
深呼吸をしてから扉をノックする。スライド式の扉がゆっくり開かれて、母親の友里恵が顔を出した。友里恵は早河の訪問に驚く様子はなく彼に会釈した。
「もしかしたら早河さんがいらっしゃるかもしれないと思っていました。あなたは警察の方ですから、上野さんにお聞きになりましたか?」
『はい。ご迷惑だとは思ったんですが居ても立ってもいられなくて……お見舞いの品もなく手ぶらで押し掛けて申し訳ありません』
「お心遣いありがとうございます。……外に出ましょうか」
友里恵は病室を一瞥した。病室の入り口から奥は白いカーテンで仕切られていて、廊下に立つ早河には室内の様子は見えない。
あのカーテンの向こうになぎさがいるのに顔を見ることは叶わず、廊下に出た友里恵が扉を閉めた。
夕焼けのグラデーションを彩っていた空にはすっかり夜の帳が下りている。
自販機とソファーの並ぶデイルームには誰もいない。早河と友里恵はデイルームのソファーに向かい合って腰掛けた。
「先週、お焼香に来てくださったのよね。秋彦の遺品も届けてくれて。ありがとうございます」
『僕に出来ることはこれくらいしかありませんから……』
責められる心当たりはあっても礼を言われることは何もしていない。落ち着かない気分で病室のある方向に目をやった。
『なぎさちゃんの様子は……?』
「傷としては軽傷で済みましたけどお医者様が言うには身体よりも心の傷が深いみたい。主人からなぎさの妊娠のことは聞いているでしょう?」
『はい。手術をされたんですよね』
「女にとって子宮に宿った命を失うことがどれほど辛いか、男性には想像しづらいものがありますよね。私も一度流産したことがあるんです。秋彦となぎさは歳が離れているでしょう? 本当なら秋彦となぎさの間にもうひとり子供がいたかもしれないの。今でもその子のことを考えると涙が出ます。そうね……産まれていればちょうど早河さんと同じくらいの年頃ですね」
男にはわからない女の心と身体の痛み。流産を経験している友里恵はなぎさに堕胎手術を受けさせた。失う痛みを知っているからこその苦渋の選択だったのだ。
「今のなぎさは心を閉じています。秋彦のことや妊娠のことが重なってあの子の心は壊れてしまった。産まないと決めたのはなぎさ自身でも、堕胎をして平気でいられる女はいません。今日のところはお引き取りいただけますか? せっかく来ていただいたのに……ごめんなさい」
『こちらこそ突然申し訳ありません。また改めて伺います』
早河は自分の携帯番号をメモして、何かあればいつでも連絡してくださいと添えて友里恵に渡した。友里恵はメモを受け取り、深く頭を下げた。
病院の外に出て夏の夜の空気を吸う。結局なぎさには会えなかった。
何をすべきかわからないまま。どこに向かえばいいのかもわからない。
ただ今の自分に出来ることは可能な限りやっていこう。それが生きている人間の役割だから。
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