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8月22日(Wed)
香道秋彦の遺品を携えて早河は香道家を訪問した。香道家は一般的な戸建て住宅で考えれば比較的大きな家だ。
二階建ての家の広いリビングの隣に和室があり、香道の仏壇もそこにあった。
警視庁に配属され、香道とバディを組んで3年。いつも隣にいた頼りになる先輩はもういない。
自分には涙を流す資格さえない。それでも潤む瞳は遺影の中で微笑む香道秋彦を真っ直ぐ見つめる。
リビングに移ると香道の父の
麦茶のグラスは2つある。焼香をしてすぐに追い返す気ではなさそうで早河はひとまず安堵する。
早河を庇って息子が死んだことで正宗は早河に冷たい眼差しを送っていたが、焼香を許してくれた。
正宗との対面は香道の葬儀の日以来だ
彼が麦茶に口をつけたタイミングで早河は例の小箱をテーブルに置く。小箱の他にも警視庁で香道が使っていた私物を詰めた袋も傍らに添えたが、正宗の焦点はただ一点、小箱に向いている。
『こちらは香道さんの机の引き出しにあったものです。中身はうちの小山が確認しましたが、桐原さんに渡すつもりの物だったのだと思います』
正宗は小箱を手に取り、恐る恐る蓋を開いた。彼は気難しい顔を歪めて溜息をつく。
『そうか……。あいつ、まだ恵さんにプロポーズしてなかったのか。馬鹿息子め』
こんな時にどんな言葉をかけたらいいのか早河にはわからない。何も言えない。言う資格もない。
『僕が彼女に渡すわけにもいきませんので……ご両親の判断に任せようとの結論になりました』
『これは私から恵さんに渡しておきます。受け取ってもらえるかはわからないがね。恵さんにも秋彦や私達に縛られずに次の人生を幸せに歩いていってもらいたい』
正宗は小箱の蓋を閉めて眉間を揉んだ。会話はそこで途切れ、静寂が訪れた。
この家はとても静かだ。静か過ぎるくらいだった。違和感の正体に気づいた早河は無意識にリビングを見回していた。
『奥様は?』
早河が訪問の連絡を入れた時も、玄関の出迎えも、お茶を出すのも、すべて正宗がひとりで行っていた。この家には本来居るはずの正宗の妻と娘のなぎさの姿が見えない。
『妻はなぎさと病院に行っています』
『なぎさちゃんと? どこか体の具合でも……』
正宗はかぶりを振り、大きな溜息をついて背中をソファーに沈めた。
『なぎさが妊娠していたんだよ。秋彦の葬儀が一段落してすぐに妊娠がわかってね。今日が堕胎手術の日なんだ』
早河の脳裏に先日めまいを起こして倒れかかったなぎさの姿がよぎる。まだ10日前の出来事だ。もしやあれは夏バテではなく、妊娠の影響によるものだったのかもしれない。
『相手は既婚だったようで……。なぎさはまだ23歳。社会人も半人前のあの子が不倫した男との子供を抱えて生きていけるほど世間は甘くない。堕胎が人の命を奪う行為であったとしても私達にはこうするしかなかったんです。私にとっても初孫だった。悔しくて堪らないよ』
正宗は年代物のシガレットケースから煙草を取り出してくわえた。娘が妻のある男の子供を身籠り、堕胎手術を受けている。正宗の心境が如何なるものか、察することしかできない。
『早河さん。その様子だとあなたはなぎさの相手を知っていたんですか?』
『いえ、僕も相手の男を一度見かけただけなんです。なぎさちゃんからはその人とは別れたと聞きました。香道さんにも別れたことを話すつもりだと言っていたのに……』
その機会を奪ってしまったのは他ならぬ自分だ。どれだけ己を責めても足りない。
息子を亡くした悲しみに浸る暇もなく次は娘の妊娠と堕胎。正宗は傍目にもわかるほど疲れきっていた。
香道家を辞去した早河を迎えるのは蒸し暑い曇天の空。貴嶋が香道を殺したあの日から1日だって心の天気は晴れやしない。
いつも、いつも、涙の大雨だった。
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