2-5

 6月に入り、その日は梅雨の中休みの晴れの日だった。些細なことで同じ学校に通う彼女と口論になり、授業に出るのも億劫になった早河は屋上で午後の授業をさぼった。

屋上のコンクリートの上に寝転び青い空を見上げる。目を閉じた途端に眠気に襲われ、うとうとしかけた時に頭上に人の気配を感じた。


『早河仁くんだよね?』


 端整な顔がこちらを見ていた。噂の転校生だ。


『お前……』


すぐには彼の名前が出てこない。早河が困惑しているのをよそに、彼は早河の隣に座る。


『君のクラスに転校してきた貴嶋きじま佑聖ゆうせいです。よろしく』


 貴嶋は早河に片手を差し出した。この日本で今どき挨拶で握手を求める高校生はいないだろうと思いつつ、早河は起き上がって差し出された手を軽く握る。ひやりと冷たい手だった。


『こんなとこで何してるの?』

『見てわからねぇ? サボり。お前も?』

『まぁね』


貴嶋は図書館で借りた本を数冊抱えていた。表紙には旧約聖書と書かれている。旧約聖書と聞いてもキリスト教に関するものとしか早河には思い出せなかった。


『貴嶋って授業さぼるタイプだったんだ。意外だな』

『あれが授業ねぇ……』


貴嶋が笑った。それは教室にいる時には見せない少し皮肉の混ざった微笑だった。

英語の授業でも貴嶋は自分よりも一回り以上年上の英語教師が貴嶋の発音をべた褒めするのを彼は冷笑してかわしていた。


『お前狙われてるぞ』

『狙われてる?』

『廊下や階段にたむろしてる連中いるだろ。アイツらの次のターゲットはお前らしい』

『へぇ』


貴嶋は気にする素振りもなく空を見上げている。


『だから……気を付けろよ』

『ありがとう。早河くんは優しいね』

『別に……』


 早河はまた寝転んだ。貴嶋も早河の真似をして隣に大の字に寝そべる。


『ここ、静かでいい場所だね。こうしてると日常の何もかもから解放された気分になるよ』


貴嶋は目を閉じて呟いた。高い鼻梁を持つ中性的な横顔は見るものを惹き付ける。


『お前って海外の血入ってる?』

『母親が日本とアメリカのハーフ。だから僕は純粋な日本人ではないよ』

『ああ……どうりで英語上手いもんな』

『あれくらいは日常会話だよ』


お互い口数は多くない。とつとつと交わされる会話が心地よかった。


 それからは晴れた日には二人で屋上に出向き、時間を共有した。

早河の横で貴嶋は題名が小難しい本を読み、早河も友達に借りた漫画を読む。貴嶋は漫画に疎く、早河が読む漫画を興味津々に覗いていた。

何てことない二人で過ごす時が高校生の早河にはとても特別で大切な時間に思えた。


 貴嶋は文武両道の言葉が似合う男だ。転校早々に行われた中間テストでは学年トップの地位を当然のようにモノにし、足の速さや運動神経の良さも誰よりも秀でていた。


貴嶋が目立てば目立つほど不良達の苛立ちは増す。彼から不良グループの話は聞いていないが、教師も手を焼く退学寸前の奴らがこのままおとなしくしているとも思えない。


 梅雨が最後の抵抗をするように7月に入ったばかりのその日は土砂降りの雨だった。朝は教室にいた貴嶋の姿が昼休みを過ぎてから見当たらない。


『仁、アイツらが貴嶋連れて裏門から出て行ったぞ』


同じクラスの友人の知らせに早河は本鈴が鳴る直前に教室を飛び出した。貴嶋が奴らにリンチされてめちゃくちゃに殴られると思った。


 傘を差さず、雨に濡れるのもかまわずとにかく貴嶋を助けないと……その思いから雨が打ち付けるアスファルトを無我夢中で走った。

奴らがリンチに使いそうな場所は見当がつく。早河は学校近くの公園に向かった。


 公園に到着して乱れた呼吸を整える。制服のシャツや髪は雨で湿り気を帯び、濡れた前髪から落ちる水滴が目に入って痛かった。

雨のカーテン越しに複数の人影が見える。早河は目の前の光景に愕然とした。


(どうなってるんだ?)


 地面に倒れている男達と周りに散乱する金属バッド。唯一、かろうじて立っている早河と同じ制服を着た男子生徒は青ざめた顔で金属バッドを握り締めていた。


平然と立つ貴嶋に向けて男子生徒がバッドを振り下ろした。貴嶋は優雅な身のこなしでバッドを避けて相手の腹部に拳を撃ち込む。

男子生徒は唸り声をあげ、ぬかるんだ地面に倒れ伏して動かなくなった。

雨の中で立っているのは貴嶋ひとり。彼は自分の周りで倒れている同級生達を冷たい目で見下ろしていた。


『……あれ? 早河くんどうしたの?』


 貴嶋はしれっとした表情を早河に向けた。口では驚いたフリをしていても早河が公園に来ていたことはとうに気付いている様子だ。

倒れて雨に打たれている同級生達は苦しげに喘いでいるのに貴嶋は息切れすらしていない。


『コイツら全部お前がやったのか?』

『うん』


彼は曖昧に笑って、濡れた地面に散らばる金属バッドを足で転がして遊んでいた。


『お前って喧嘩強かったんだな』

『暴力は好きではないよ。ただこれでも一通りの武術は取得しているんだ。合気道や空手とかね』


 身体の線が細い貴嶋と格闘技が結び付かない。日頃の授業で貴嶋の運動神経の良さは知っていたがまさか武術の心得があるとは思わなかった。


『もしかして僕を心配して来てくれた?』

『お前がボコボコにされるんじゃないかと思って……取り越し苦労だったな』


こんなことなら焦って駆け付けなくても大丈夫だったと、要らぬ心配をした自分を恥じた。


『ありがとう。君の気持ちが僕は嬉しかったよ』


貴嶋は濡れた髪を掻き上げて穏やかに微笑んだ。


 その日以降、不良グループが貴嶋に近付くことは一度もなかった。

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