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 そして夏休みになった。2年生は来年の大学受験に備えて夏期講習がある。早河と貴嶋も夏期講習に参加していた。


 三階の教室からは青いプールが見える。水泳部の生徒達がタイムを競い合って泳いでいた。

部活動に所属していない二人は夏休み中も部活に勤しむ運動部の生徒達を横目に夏期講習の後は駅前のファーストフードのハンバーガー店やファミレスで昼食をとり、そのまま二人で帰る日々を送っていた。


 8月のあの日もいつものハンバーガー店に向かった。


『貴嶋はどうして部活やらないんだ? 今なら3年で引退するまで1年は続けられる。入ってくれって勧誘されてるんだろ。バスケ部の奴からお前を説得してくれって頼まれたんだよ』


いつものハンバーガー店のいつもの席で、早河は気になっていたことを貴嶋に聞いた。早河の通う学校は部活は強制されていないが、どんなスポーツもそつなくこなす貴嶋の運動神経の良さは有名だ。


 貴嶋は基本的に誰にでも分け隔てない態度で接しているが、昼休みを共に過ごしたり一緒に帰宅する存在は早河だけだ。

教師でも貴嶋に話しかけることを躊躇う。人当たりはいいけど壁があり近寄りがたい、それが校内での貴嶋のイメージだった。

貴嶋と最も親しい人間は早河だと生徒や教師からも周知されている。


『それを言うなら早河くんも部活に入っていないよね。陸上部の顧問が早河くんなら都大会も狙えるのに勿体ないと言っていたよ』

『俺は部費に回す金がないって言うか、部活やるにもユニフォームや靴なんかに色々金かかるだろ』

『親に負担をかけたくないと思う早河くんは立派だね。僕はそんなこと考えたこともない』


 貴嶋はブラックのアイスコーヒーを品よくストローですすり、二階席から窓の外を見つめた。彼のトレーには食べかけのハンバーガーが載っている。

学校帰りに初めてここに連れて来た時に貴嶋はハンバーガーを初めて食べたと言っていた。一体どんな人生を通れば高校生で生まれて初めてのハンバーガーを食べる人生になるのか……やはりおかしな男だ。


 貴嶋が細長い指を親指から順にひとつずつ折る。


『バスケ部、陸上部、サッカー部、テニス部、剣道部……あとは……語学研究会にも誘われたね。全部断ったよ』

『だからなんで?』

『面倒なことはしたくないんだ。チームプレイにも興味はない。やるなら授業で十分』


貴嶋らしい答えに納得してしまう。彼が転校してきてまだ3ヶ月の付き合いでも、貴嶋が集団での群れを嫌うことを早河は知っていた。早河も同じだからだ。


 早河は自転車通学、貴嶋は徒歩で通学していた。自転車をひく早河の隣を貴嶋は悠々と歩く。歩いているだけで汗が滲む暑い午後だ。木々に潜む蝉達が夏にしか聴けない歌声を奏でていた。


 貴嶋がどこに住んでいるか聞いたことはない。電車で通学している様子もなく、自宅が高校から徒歩圏内であるらしいとしかわからない。自宅の電話番号も知らない。

自分達は互いの自宅を行き来したり電話をかけあったりするようなベタベタとした友人関係ではない。彼の家や電話番号を知らなくても早河に不都合はなかった。


『ねぇ早河くん。この世に神はいると思う?』


突然そんなことを言い出した貴嶋の表情は夏の日差しが逆光になって見えなかった。


『さぁな。お前はどう思うんだ?』

『僕は……そうだね。もしも本当に神なんてものがいるのなら……』


貴嶋がそう言った瞬間、蝉達は大合唱を止めた。まるで貴嶋が今から言おうとしている言葉を待つようにほんの一時の静寂が二人を包む。


『神とは残酷なお方だ。人が人を殺すのを黙って見ているのだから』


 生暖かい風が吹き、木々がざわめいた。厚い雲が太陽を隠して闇が訪れる。

雲が太陽から離れ、再び照りつける日差しが眩しくて早河は思わず目を伏せた。

蝉達の賑やかな歌声が再開する。


『さようなら』


貴嶋は早河に背を向けていつもの調子で別れの挨拶を言う。


『また明日な』


早河は貴嶋に手を振った。貴嶋は早河に手を振り返して分かれ道を歩いていく。並んで歩いていた影法師が離れていった。


 また明日……そう言って別れた貴嶋は“明日”にはいなかった。翌日の夏期講習を貴嶋は欠席した。


        *


 ――早河は記憶の矛盾に気付く。段ボールに一緒に入っていた父の手帳で1995年のカレンダーを確認した。


 父が死んだ95年8月11日は金曜日だ。午前中の夏期講習を終えて昼過ぎに帰宅した早河が父の訃報の連絡を受けたのは11日の夕方だった。

あの日の夏期講習に


 その後、父の葬儀や居候先となる伯父夫婦の家への引っ越しで残りの夏休みは慌ただしく過ぎ去り、夏期講習に行く暇もなかった。

そうして9月の新学期を迎えるといつの間にか貴嶋は学校を退学していた。


 担任に事情を聞いても退学届が郵送されてきただけで、担任や他の教師達も詳しい事情は知らなかった。

貴嶋は何も言わずに姿を消した。貴嶋と最後に会ったあの日は父が殺される前日の8月10日の木曜日。


 12年前の夏、二人の人間と別れた。

ひとりは父親、もうひとりは親友と呼ぶには照れ臭くて結局一度も親友と呼べなかった友人、貴島佑聖……。


こんな大事なことを忘れていた? いや、記憶から消していたのかもしれない。父親の死であの夏の記憶すべてを思い出したくない記憶として封印していた。


 背中にぐっしょりと汗を感じて早河は乱暴にスーツを脱いだ。浴室で生ぬるいシャワーを頭から浴びる。

父の8月10日の日記に書かれていた“彼”とは……


(親父は俺と貴嶋が一緒に帰っているところを見ていた? それで……)


だからなんだと言うのだ? 息子が友達と帰宅している光景を父親が目にしてもさして深刻な問題ではない。


 貴嶋のことを父に話した覚えはない。探偵として多忙な父の帰宅はいつも夜遅く、父と息子の会話は少ない。

もともと友人関係や恋人のことを父親に報告するような性格ではなく、父が自分の交遊関係を知り得たはずない。


(だけど親父は貴嶋を知っていた? 知っていたから……)


 ─―ねぇ早河くん。この世に神はいると思う?――


なぜ貴嶋はあんな質問をした?


 ――さて。問題だよ、早河くん――


早河はシャワーに打たれた顔を上げる。初めて貴嶋のもうひとつの顔を垣間見てしまったあの時も大粒の雨に打たれて二人ともこんな風にずぶ濡れだった。


去年の静岡で起きた殺人事件。あの時にかかってきた奇妙な非通知電話……


 ――私の正体はこれからわかってくるさ――


まさか……門倉唯を誘拐した犯人のあの口調、あの妙にかしこまった上から目線のあの口調は……


 ――私は誰でしょう?――


『お前だったのか。貴嶋……』



第二章 END

→第三章 忍び寄る陰 に続く

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