3-2

 霊園を離れた早河は都心に戻った。家に帰る気にもなれず、あてもなく車を走らせ辿り着いた先は渋谷。

コインパーキングに車を駐めて渋谷の街を歩く。中高生を狙う怪しげな人間についつい鋭い視線を向けてしまうのは刑事の職業病と言うものか。


大きな買い物袋を提げて友達と笑い合う少女達、腕を組んで歩くカップル、土曜日でも仕事をしているスーツ姿のサラリーマン、見た目ではどんな職業かわからない人々、そんな人々に紛れて世間から見放されたような風貌のホームレスに、犯罪の匂いを漂わせる男や女がちらほら見え隠れする。


(街ひとつとっても光と闇だな)


 賑わう大通りから路地裏を一歩入るとそこは犯罪の巣窟だ。いつもどこかで何かが起きている。

世界のどこの街でも光と闇の部分がある。


 喉の渇きを潤すためにカフェに入った。混雑していたが幸いにも窓際のカウンター席が空いていたので彼はそこに落ち着いた。

注文したアイスコーヒーはほどよい苦さで美味しかった。


 街も人も同じだ。誰にでも光の部分と闇の部分がある。ただどちらがより濃いのか、自分の本質はどちらに近いのかで分かれていく。


「早河さん……ですよね?」


 ぼうっと考え事をしていた早河は名前を呼ばれて我に返った。窓ガラスにうっすら映る人影が真横に立っていた。


『……なぎさちゃん?』

「こんにちは。今日はお休みですか?」


そこにいたのは香道秋彦の妹、香道なぎさだった。今日のなぎさの服装はストライプのシャツにタイトスカート。以前に警視庁で会った時よりも大人っぽい印象を与えて最初はなぎさだとわからなかった。


『非番なんだ。なぎさちゃんは土曜日なのに仕事?』

「そうなんですよ。お盆休み入る前の最後の仕事です。ここで片付けちゃおうと思って」


なぎさはノートパソコンの入る大きな鞄を肩に提げていた。


「隣、座ってもいいですか?」

『もちろん。でも仕事はいいの?』


 カウンター席の早河の隣になぎさが座る。貝殻モチーフの涼しげなピアスが揺れていた。


「一通り終えました。もう出ようとしていた時に早河さんっぽい人を見つけて。でも人違いじゃなくてよかった。早河さん私服だと別人だから」

『そうかな?』

「そうですよー。最初は早河さんだとわからなくてよく見たらやっぱり似てるから声かけてみたんです。人違いなら恥ずかしい思いするところでした」


なぎさは快活に笑っている。彼女と会った過去二回はどちらもこんな笑顔を見せなかった。本来のなぎさはこんな風に屈託なく笑う明るい女性なのだ。


『なんだか、なぎさちゃん前より明るくなったね』

「彼と別れたんです」


笑っていた彼女が視線を落とした。


「私から別れようって切り出したら“いいよ”の一言で呆気なく終わっちゃいました。最初からそんな薄っぺらい関係だったんですよね」


 先月会った時に、なぎさは不倫の恋に終止符を打つ覚悟を決めていた。薄っぺらい関係と言っても一度好きになった人間をそう簡単に忘れることはできないだろう。


『香道さんには話したの?』

「まだです。お兄ちゃん全然家に帰って来ないし、電話で話すのも、なんか違う気がして……。けど、ちゃんと話します」

『うん。香道さんならきっとなぎさちゃんの気持ちわかってくれるよ』


早河は笑顔で頷く。香道は頭ごなしに叱る人ではない。不倫の恋を自ら断ち切った妹を責めたりはしないはずだ。


「今度は早河さんみたいな人を好きになりたいなぁ」

『ははっ。それはオススメできないよ』

「でもお兄ちゃんがとてもいい後輩の刑事がいるって前に言ってました。それって早河さんのことだったんですね。お兄ちゃん、早河さんのこと相当好きみたい」

『それは参ったな』


香道が自分をどこまで評価しているかは知らないが、バディの彼に認められている事実は素直に嬉しい。


「早河さんは優しいから、お兄ちゃんがべた褒めするのもわかります」

『優しい……か』


早河の表情のかげりになぎさは気づく。


「優しいって言われるの嫌ですか?」

『自分のことは自分ではわからないものだと思ってね。俺は他人に無関心な方だと思ってるんだ。誰かに優しくしてるつもりもないし、優しいと言われてもいまいちピンと来ないんだよね』


 なぎさは相槌を打ちながら小首を傾げた。自分のことは自分ではわからない、その通りだ。けれど相手からは見えている自分の姿がある。


「早河さんは寄り添ってくれるんですよ。人の悲しみや痛みに黙って寄り添ってくれる。偉そうなことは言わないし無責任な励ましもしなくて、黙って話を聞いてくれる。きっと、そういうことができる人って少ない気がします。これが私が思う早河さんの優しさです。私は早河さんに話を聞いてもらって彼に別れを言う決心がついたんです」


なぎさの微笑に心が温かくなる。


『なぎさちゃん、ありがとう』

「私にはこれくらいしかできることもなくて……」


 恥ずかしげにはにかむなぎさが次は不倫の恋ではなく、いい出会いに恵まれることを早河は心底願った。今度は彼女が傷付くことのない恋愛ができるようにと……。


 しばらく他愛のない話をして二人はカフェを出る。


「私は会社に戻ります。上司に原稿チェックしてもらわないといけないので」

『仕事頑張ってね』


早河に会釈して歩き出そうとしたなぎさの身体がぐらっと揺れた。ふらつくなぎさの身体を早河がとっさに支える。


『大丈夫?』

「ごめんなさい。大丈夫です……」


なぎさ自身もふらついたことに驚き、額に手を当てて動揺していた。一見して体調が悪そうには見えなかったが身体の内部の不調は目に見えない。


『本当に大丈夫?』

「はい。たぶんちょっと夏バテ気味なのかも」

『俺は車だから会社まで送ろうか?』

「早河さんにご迷惑かけられません。駅も近いし平気です」


 なぎさは最後に早河に笑顔を見せて人混みの中に消えた。最後に見た彼女の笑顔は少し苦しそうだった。

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