3-8
随分と長湯をしてしまった。あれからどれくらい経っただろう?
入浴前に洗面台に置いた美月の濡れた衣服はここにはなかった。キングは気配もなく現れる男だ。彼が洗面所にいつ服を取りに来たのか美月は知らない。
まだ服がないので裸体にバスローブを羽織る。下着も身につけないままは落ち着かないが洗濯中なので仕方ない。
洗面台に揃うアメニティには化粧水や乳液、ボディークリームまであった。大きな鏡を覗き込んでアメニティの化粧水を使ってスキンケアをする。化粧水も乳液もボディークリームも、どれも一流のコスメブランドの商品だった。
ドライヤーで乾かした髪にブラシを入れている時、洗面所の扉がノックされた。
『開けても大丈夫?』
「は、はいっ!」
バスローブの前をしっかり合わせてから、扉を開けた。扉の前にいたキングはホテルのロゴの入る紙袋を持っている。
『ちゃんと温まった?』
「うん。いいお湯でした」
『それはよかった。はい、美月の服。洗濯してもらって今届いたよ』
紙袋の中にはビニールに丁寧に梱包された美月の服が入っていた。クリーニングに出した後のような仕上がりだ。下着の入る袋には外から中身が見えない配慮がされている。
一流ホテルの気遣いはやはり一流らしい。
「ありがとう」
袋を受け取ってまた扉を閉める。今度は自分の服に袖を通して鏡を見た。雨でずぶ濡れになった服はすっかり綺麗になっていた。新品の服を着たみたいに、汚れのひとつも残っていない。
リビングではキングがソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。美月を見て微笑む彼はどんな仕草でも優雅だ。
コーヒーの匂いが漂う部屋で美月はどうしていいかわからず立ち尽くす。キングがここに座れと片手で自分の隣を示した。
美月は頷いて彼の隣におずおずと腰を降ろす。
「キングはシャワー浴びなくていいの? ちょっと濡れてたでしょ?」
『平気だよ。雨に濡れるのは嫌いじゃない。美月も何か欲しい物があれば頼んでいいよ』
「でも私、お金あんまり持ってないよ。ルームサービスなんて頼んじゃったらいくらになるの?」
彼女は渡されたルームサービスのメニュー表とキングの顔を交互に見た。彼は意表をつかれたように肩を震わせて笑い出す。
『相変わらず面白い子だね。心配しなくてもお金はすべて私が払うよ。美月に払わせるわけないだろう? だから好きな物を頼みなさい』
「本当にいいの?」
『もちろん。君は私と一緒に居てくれればそれでいいんだ』
コーヒーを片手に微笑するキングは優しい顔をしていて、バスルームでよぎった一抹の不安は消えていた。
(至れり尽くせりってこういうことかな。現代文の模試で出たらばっちり答えられそう)
安心したら急に甘い物が欲しくなった。メニューに載るケーキはどれも美味しそうで美月を唸らせる。
「チョコケーキもレモンパイもイチゴのロールケーキも美味しそう」
『欲しい物は全部頼んでいいよ』
「それは……ダメ。そんなに食べたら太っちゃう」
『ははっ。やっぱり女の子だねぇ。美月は華奢だから気にしなくてもいいのに』
美月との会話をキングはとても
『こちらは私が頼もう。二人でシェアして食べようじゃないか。美月は他の欲しい物を頼めばいい』
キングの魅力的な提案に従い、美月は迷いに迷ってレモンパイとミルクティーを選んだ。
キングが内線電話でルームサービスの注文をしている間、彼女は室内を探索する。毛足の長いふかふかの絨毯の上では足音も響かない。
窓の外にはバルコニーがあるが
『どうした?』
後方でキングの声が聞こえる。振り向くとすぐ後ろに彼が立っていた。
「えっと……ちょっと探検? かな」
『好奇心旺盛なところも変わらないねぇ。そんなにこの部屋が珍しい?』
「うん。こんなに広い部屋初めてだから。キッチンもついてるのびっくりした」
『ここはスイートルーム。ホテルの中でもランクの高い部屋だよ。ここで生活もできる。芸能人や作家はホテルで生活している人も多いんだよ』
彼は美月の肩を抱き寄せた。
『美月が望むなら泊まっていくこともできる。どうする?』
「えっ……あの……」
『冗談だよ。さすがにそれは、まだ、ね。襲ったりしないから安心して』
まだ、の言葉の意味が引っ掛かるが彼の穏やかな口調と優しい笑みについほだされてしまう。
部屋の呼び鈴が鳴り、ルームサービスが届いた。美月の注文したレモンパイとミルクティー、キングのチョコケーキとコーヒーのおかわりが運ばれて来た。
美月は三角形のレモンパイの頂点にフォークを入れた。さくっとした食感と爽やかなレモン風味のクリームが口の中に広がる。
『レモンパイ美味しい?』
「とっても美味しい! キングも食べる?」
『……そうだね』
キングは隣に座る美月に近付いた。
レモンパイを頬張る美月に彼はキスをする。驚いている彼女の口内にいとも簡単に侵入したキングは咀嚼したレモンパイを口の中で分けあって、二人は同時にそれを飲み込んだ。
レモンパイを飲み込んだ後もキングとの長いキスは続いた。上手く息継ぎをしながら、触れて、舐めて、絡めて、唇の接触が続く。
ようやく美月から唇を離したキングが口元を斜めにした。
『ごちそうさま』
どの意味でのごちそうさま?と問い質したくても美月は羞恥でいっぱいになって顔を上げられない。顔は熱を帯び、心臓がドキドキしている。
「襲わないって言ったのに……」
『レモンパイを食べただけ』
「私はレモンパイですかっ!」
『美月が嫌がらなかったからねぇ。つい。これで機嫌を直して』
悪びれる様子もなく、彼はフォークで切り分けたチョコケーキを美月の口に運んだ。チョコケーキは甘さ控えめのビターな味わいだった。
(確かに嫌がらなかったけどキングとキスしちゃった。どうしよう)
チョコケーキを飲み込んで、美月は自分の唇に触れた。甘いレモンパイの味がしたキスの余韻が唇に残っている。
恋人でもない男とキスをしてしまった。
『せっかくだからもう一度キスする?』
「しませんっ!」
『それは残念。でも君が嫌がることはしないよ』
優しい手つきで髪を撫でられて、去年の夏に初めてキングと会った日のことを思い出した。あの時もこんな風にキングは優しく髪を撫でていた。
キスをされても何故だかこの男を拒絶する気にはなれない。それはきっと、キングが“彼”に似ているから。
抱き寄せられたキングの胸元にぎゅっとしがみつく。キングは美月の髪をずっと撫で続けた。
静寂に包まれるホテルの一室。降り続く雨の音だけが聞こえていた。
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