4-11

9月8日(Sat)


 病室の窓ガラスに小粒の雨が打ち付けた。九州を通過し、関西地方を暴風域に取り込んだ台風はゆっくりとした速度で関東地方に接近している。


「あーあ。今日は晴れがよかったなぁ」


 香道なぎさは台風で荒れる外を見て溜息をついた。今日はなぎさの退院の日だ。


「なぎさ、早く荷物まとめなさい。もう時間ないんだから」

「はぁい」


母に急かされて荷物をバッグに詰める。

ピンクと青色のシルクのリボンも綺麗に折り畳んでバッグの内ポケットに入れた。リボンは早河が見舞いにくれた花束のラッピングについていたもので、なんとなく捨てられずにいる。


 少しずつ笑える日が増えてきた。それは多分あの人のおかげ。

毎日毎日ここに来て、わずかの滞在でも他愛ない話をして帰っていく早河のおかげでまた笑えるようになった。


「ねぇお母さん。早河さん今日来るかな?」

「退院の日は伝えてあるから来るかもしれないけど、お忙しい方だからどうかしらね」

「そうだよね」


 早河の停職期間が明けて彼は今週から再び刑事の任についている。多忙を極める早河はそれでも毎日欠かさず見舞いに来てくれた。

たとえ5分でも、早河が見舞いに来てくれるだけで嬉しかった。彼と話をするのが楽しかった。それも今日で終わりだ。


(連絡先くらい聞いておけばよかった。でもそんなの聞かれても迷惑だよね。お母さんなら早河さんの連絡先知ってるんだろうけどあえて聞くのもなぁ)


 扉がノックされ、友里恵が開けた扉から早河が姿を現した。ちょうど早河のことを考えていたなぎさはわずかに頬を赤らめて彼を出迎える。


『今日退院だったよね。荷物になると思ったんだけど……これ。退院おめでとう』


早河はなぎさにピンクを基調とした小ぶりな花束を差し出した。なぎさが笑顔で花束を受け取る。


「わぁ……綺麗! 早河さんありがとうございます」


 ピンクと薄紫の花の周りをカスミソウが囲んでいる。ラッピングのリボンはシフォン素材の白色。またリボンのコレクションが増えた。


 彼はなぎさの笑顔に安堵した。なぎさが笑っている。彼女が笑えるようになったのならそれでいい。


「早河さんどうしたんですか? なんか元気ないみたい」

『そう? 少し寝不足だからかな』


 苦笑いする早河の充血した赤い目はまるで捨てられた子犬のように見える。寝不足と言うよりも泣いた跡のような……。


(早河さん何かあったのかな? 仕事のこと? それともプライベートなこと?)


これ以上は踏み込めない。早河には早河の事情がある。


 早河となぎさは一緒に病室を出た。母の友里恵はナースステーションで看護師と話をしている。


『なぎさちゃん。俺、警察辞めるんだ』

「辞める?」

『今のまま警察にいても俺は何もさせてもらえない。鎖に繋がれた国家の飼い犬だ。だから辞めることにしたよ』


なぎさは早河に貰った花束を両手でぎゅっと抱えた。


(早河さんが警察を辞めるのはお兄ちゃんの死も理由にあるんだよね)


 早河は兄の仇を必ずとると言った。その為に彼は警察を辞める。


「辞めてどうするんですか?」

『俺の親父も昔刑事だったんだ。そして刑事を辞めて親父は探偵になった。だから親父と同じ道を行こうと思う』


 彼はポケットから古びた銀色のライターを出してなぎさに見せる。ライターにはT.Hのイニシャルが彫ってあり、早河のイニシャルとは違う。


「それ早河さんの……?」

『親父の形見。どうなるかはわからないけどやるだけやってみるよ。香道さんの仇をとるってなぎさちゃんと約束したしね』


哀しげな目をしているのにどこか吹っ切れた清々しさを感じる横顔が早河の決心を物語る。


 なぎさの父親の香道正宗が廊下を歩いて来た。早河は正宗に会釈する。正宗も早河に目礼した。


『なぎさ。お母さんと先に車に行っていなさい。お父さんは早河さんに話があるんだ』

「……はい」


正宗に渡された車の鍵を持ってなぎさは名残惜しげに早河と別れ、母親とエレベーターホールに向かった。


 早河と正宗はデイルームのソファーに向かい合って座った。最初に病院を訪れた日もなぎさの母の友里恵とこうして向かい合って話をした。あれからもう1週間だ。


『上野さんに聞きましたよ。警察をお辞めになるつもりだと』

『はい。近日中には』


早河が刑事を辞める件は上司の上野警部から正宗に伝わっている。上野にはずいぶん引き留められたが、早河の意志は揺らがなかった。


『警察を辞めても……その……秋彦を殺した奴を捕まえられるものですか? 民間人に犯罪者を裁く権利はないと私は思いますが』

『仰る通りです。警察を辞めれば僕はただの民間人になります。でも民間人でも犯罪者を追い続けることはできます。僕の父がそうであったように。父と同じようにいくかはわかりません。ですが、もう決めたことです』


 正宗は早河を見つめた。早河の真意を、彼の決意を読み取るかのように。


『あなたの人生ですから口を挟む真似はしません。ただ警察を辞める理由が現実からの逃避ならば許せないと思っただけです。……なぎさが退屈しているだろうからそろそろ行きましょうか』


正宗は小さく頷いて立ち上がった。早河も立ち上がる。


『毎日、病院に来ていただいたようですね。なぎさの話し相手をしてくれていたと妻が話していました。ありがとうございます』

『少しでも彼女の気晴らしになればと思って……僕にはこれくらいしかできませんから』


 廊下を歩いてエレベーターホールに辿り着く。二人は到着したエレベーターに一緒に乗り込んだ。


『なぎさちゃん、仕事はこれからどうされるんですか?』

『先月から欠勤が続いてしまいましたからね。今月中には仕事に行かせます。身内が死んでも、子供を堕ろしても、いつまでも休んではいられません。いつかは社会に出て働かなければいけない。それがこの国のルールです』

『……そうですね』


 何が起きても働かないといけない社会のルール。早河もこの先、自分ひとりが暮らしていくだけの稼ぎを得るだけで精一杯になる。

安定した公務員の仕事を自ら手放すことはない……警察を辞めると決めてからは周囲からそんな声も飛んできた。それでもこのまま警察の飼い犬になるよりもマシだ。


 病院のエントランスで早河と正宗は別れる。正宗を見送り、早河は黒い雲の渦巻く空を見上げた。台風が接近して暴風警報が出ている東京は雨は小雨だが風が強い。街路樹の木が大きく揺れていた。


『……俺も行くか』


 貴嶋佑聖と犯罪組織カオスを追い続けるために。

今日が警察官でいられる最後の日だった。



第四章 END

→第五章 春日影 に続く

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