第五章 春日影
5-1
2008年4月2日(Wed)
場所は新宿区四谷。暖かな日差しが照らす新宿通りを香道なぎさは歩いていた。
「えーっと……ここを曲がればいいのかな?」
交差点の側で立ち止まって携帯電話の画面に表示した地図とメモを見比べる。赤色のキャリーケースをゴロゴロと引きながら歩くなぎさは一見すると東京観光に来ている旅行客の様だ。
交差点を曲がって道なりにしばらく歩くと、目的の場所を見つけた。電信柱の住所表示は確かにメモに書いてある住所と同じだった。
特に新しくもない灰色の建物を見上げる。三階建ての建物の一階部分はガレージになっていて黒い車が駐まっていた。
ガレージ横に螺旋階段がある。階段は三階まで繋がっているが、なぎさの行き先は二階だ。
キャリーケースを持ち上げるのに一苦労しながら彼女は螺旋階段を上がる。スプリングブーツのヒールの音が階段に響いた。
二階の踊り場で一息つき、目の前の銀色の扉を見つめた。深呼吸をして扉横の呼び鈴を押す。しばらく待ってみたが応答がないのでもう一度押してみるが、やはり反応がない。
(ガレージに車があったから居ると思ったんだけど居ないのかな? やっぱり先に電話するべきだった?)
ここで立ち往生していても仕方ない。諦めて今日は帰ろうかと思った時、何の気なしに触れたドアノブが回ってしまった。
(嘘……鍵かかってないの?)
鍵をかけないとはあの人にしては無用心だ。
内側に細く開かれた扉から中を覗く。物音ひとつ聞こえない。
(どうしよう。これって入っていいの? 出入り自由? 不法侵入にならない? でも鍵かかってなかったし……)
「……お邪魔しまーす」
小声で呟いて中に入った。キャリーケースも一緒に持ち込み、音を立てないように扉を閉める。
例えて言うなら室内は“がらん”としていた。
グレーのタイルカーペット敷の12畳程度の広さの部屋には業務デスクがひとつとリクライニングチェアー、黒色の三人掛けソファーが二つ向かい合って配置してある。
主要な家具はそれだけ、インテリアの類いはない。
ブラインドが上げられた部屋には春の陽光が注いでいて、日の当たるソファーの上で人が寝ていた。
(人いるじゃないっ! だけど……寝てる……?)
ソファーで眠る男は派手な柄シャツを着ている。こんな派手な服、一体どこに売っているのだろう?
日向ですやすや眠る男の寝顔は少年のあどけなさと成人男性の精悍さがないまぜになっていた。年齢はなぎさと同年代か少し上に見える。
「……あの……すみません…」
身を屈めて男の肩を軽く叩く。男が小さく唸り声をあげた。
「あのぅ……」
『……ん……?』
また肩を叩くと男がうっすら目を開けた。彼はなぎさを数秒見つめて彼女の腕を引いた。
男の胸元に倒れ込んだなぎさは男の腕の中でもがく。
『アユミー……』
「アユミって誰よ! ちょっと離してよっ!」
抱き締めてくる男を必死で押し退けてやっとの思いで男から逃れる。床に尻餅をついたなぎさは冷や汗をかいていた。
身体を起こした柄シャツの男は寝ぼけ眼でなぎさを見ている。彼は悪気のない素振りで首を傾げた。
『アユミ……じゃない。えーっ……誰?』
「誰ってそれはこっちのセリフよ! あなた誰ですか? ここは早河さんの探偵事務所のはずじゃ……」
『ああ……早河さんに用がある人? 依頼人? 立てる?』
男はなぎさの話に合点がいったらしい。彼は呑気にあくびをして立ち上がり、床に座り込むなぎさに片手を差し出した。
人違いでセクハラされたばかりの男の手をとる気にはなれなかったが、好意を突っぱねるわけにもいかない。
なぎさは差し出された男の手をとって立ち上がる。大きくて温かな手だった。
「依頼人ではないです。でも早河さんを訪ねて来ました」
『そっかそっか。残念だけど早河さん今いないんだよね。……って、見てわかるか。銀行とか煙草買いにとか、まぁちょっとそこまで出掛けてるだけだからすぐに帰ってくるよ。あ、お茶いる? 俺、これでもコーヒー淹れる才能はあるんだよねー』
「はぁ」
この男は何者なのか。早河の関係者であることは間違いなさそうだが正体不明の彼のペースについていけない。
「あなたは早河さんのお知り合いですか?」
『俺? んー……お知り合いって言うか、友達と言うか仕事仲間と言うか。そんな関係をもう10年続けているなぁ。コーヒーでいいなら出せるけど』
「じゃあコーヒーを……」
『おっけー。座って待っててね』
男はなぎさにウインクして部屋の奥に行ってしまった。
何と言うのか、とてもチャラい。早河にあんなに軽くてチャラチャラした知り合いがいたことが意外だった。それも10年の付き合いになるとは。
(そもそも私、早河さんのことよく知らないんだよね)
とりあえずコーヒーと早河の到着を待つことにしてなぎさはソファーに腰を降ろした。
部屋の奥から鼻歌が聞こえてくる。訳のわからない陽気な男だ。
『俺は矢野って言うんだ。さっきも言ったけど一応は早河さんの仕事仲間』
矢野と名乗る男がコーヒーカップを二つ持って戻って来た。
『ミルクと砂糖いる?』
「はい。仕事仲間って警察ではなく探偵の仕事の?」
『そうそう。今は探偵の方の、ね』
なぎさはコーヒーに砂糖とミルクを入れて一口飲んだ。意外と言うのは失礼だが、矢野のチャラチャラした見た目からは想像もできないほど彼の淹れたコーヒーは美味しかった。
本当にコーヒーを淹れる才能はあるようだ。
矢野はなぎさの向かい側に座り、コーヒーにミルクも砂糖も入れずにブラックで飲んでいる。
『情報屋ってわかる?』
「情報屋? なんですか、それ?」
首を傾げたなぎさの反応に矢野は快活に笑った。
『まぁそうだよねー。君みたいな子には縁のない世界だと思う。簡単に言えば情報を仕入れて金稼ぎする仕事。ブラックかホワイトならわりとブラック寄りの職業だろうね』
「はぁ……ブラック?」
よくわからないが普通の勤め人でないことだけは矢野の服装を見ても一目瞭然だった。
『で、仕入れた情報を早河さんに渡すのが俺の仕事』
「なるほど……だから仕事仲間なんですね」
やっと矢野と早河の関係が繋がった。世の中は知らない職業で溢れている。
きっとまだまだ自分の知らない世界がある。
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