5-2

 外の階段を上がる音が聞こえて矢野が扉の方へ顔を向けた。


『帰って来たな』


矢野の言葉から数秒遅れて扉が開き、この事務所の主である早河仁がコンビニの袋を提げて入ってきた。


『おっかえりー、マイダーリンー!』

『……は?』


軽い調子で出迎える矢野とは対照的に早河は室内にいるなぎさを見て呆気にとられている。


『……なぎさちゃん?』

「お久しぶりです」


 なぎさは立ち上がって早河に会釈する。困惑する早河はとりあえずデスクにコンビニの袋を放り投げ、いまだ状況が掴めない様子でなぎさを見据えた。


『どうしてなぎさちゃんがここに? どうやってこの場所……』

「母に聞きました」

『そうか。一応、香道さんの家にはここの住所知らせておいたんだ』


 過去の自分の行いを完全に失念していた。苦笑いして額に手を当てる早河となぎさを矢野は交互に見た後、早河に耳打ちした。


『早河さん、今、って言いました? まさかこの子……』

『香道さんの妹さんのなぎさちゃんだ』

『まじっすか! 香道さんの妹? うわぁ……ヤバいヤバい! 俺、さっきアユミと間違えてこの子のことぎゅっとしちゃったんですよっ。まずい!』


慌てふためく矢野を早河が小突く。


『お前まさかなぎさちゃんに手を出したんじゃ……』

『いやいやいや! 手は出してない! 香道さんの妹に手を出すなんて考えただけで恐ろしい!』

「……あのー!」


 自分の存在を忘れられている気がしてなぎさは早河と矢野のやりとりを強制的に止めた。二人の男が同時になぎさを見る。


「矢野さんも兄とお知り合いだったんですか?」

『あー……うん。香道さんとも一緒に仕事した仲だから……。それにしても妹か。確かにちょっと似てるかも』


矢野がまじまじとなぎさを眺めて溜息をついた。早河はなぎさの横に置かれた赤色のキャリーケースに目を留める。


『今日はどうしたの? 荷物すごいけど旅行にでも行くの?』

「家出してきました」

『……家出?』


早河の言葉に重なって矢野が口笛を吹く。まったく状況が飲み込めない。


『家出ってなんで……』

「父と喧嘩して家を出てきました」


 早河は唖然としてすぐには言葉が出てこない。なぎさは一歩前に進み出て早河に頭を下げた。


「早河さん。私をここで雇ってください。タダ働きでもいいんです。雑用でも掃除でも電話番でもなんでもします。私にも兄を殺した人間を追わせてください。お願いします!」


去年の夏よりも少し短くなったなぎさの髪が揺れていた。早河は頭を下げるなぎさを一瞥してリクライニングチェアーに腰を降ろす。


『なぎさちゃんはお兄さんを殺した人間とそいつが支配する組織のことをどれだけ知ってる?』


早河の声は冷静さを取り戻していた。なぎさが顔を上げる。


「それは……よく知りません。ニュースでも報道されてなくて……」

『組織の情報は警察が報道規制をしているからね。お兄さんを殺した人間はある犯罪組織のトップの男だ。そいつはトップを継承するために自分の父親と俺の父親を殺している』

「早河さんのお父さんを……?」


早河の両親の他界は彼自身の口から聞いてはいるが、殺されたとは思わなかった。なぎさは視線を落とす。


『奴は人を殺すことに罪悪感を感じない。自分の父親を平気で殺せる人間だ。そんな男が牛耳る組織も君の想像以上に恐ろしい犯罪者集団の集まりだろう。そんな奴らを俺は追っている。俺にはアイツを追う理由があるから。父親の仇と先輩の仇、それに友人として……』

「友人? そのトップの男と早河さんは友達なんですか?」

『友達だった、だろうね。高校時代の話だよ。矢野、俺にもコーヒー』

『はいはい』


 矢野が事務所の奥に下がる。ふたりきりになった室内でなぎさは無言で早河を見つめた。


『俺は刑事を辞めてでも、どんな手段を使ってもアイツの犯罪を止めてアイツの組織を潰すために生きている。だけど君はそんな血生臭いものとは無関係でいて欲しい。俺と一緒に犯罪者を追おうなんて考えちゃいけない』

「でも私は……」

『悪いけど君を雇う気はない。帰ってくれ』


 彼は冷たく言い放った。なぎさはそれ以上は何も言わずにキャリーケースを引いて事務所を出ていく。

家出をしてきた彼女はあのキャリーケースを抱えてこれからどこに行くのだろう?


『雇ってあげればよかったんじゃないですか。なにもあんな冷たくしなくても』


矢野が淹れたてのコーヒーを早河のデスクに置いた。早河はぼんやりと窓の外を眺めている。空が次第に夕焼け色に染まっていく。


『これは命懸けの仕事だ。いつ貴嶋やカオスの連中に命を狙われるかわからない。俺やお前ならともかく、なぎさちゃんを危険と隣り合わせの世界に巻き込めない。もしあの子に何かあればご両親や香道さんに申し訳ない』

『それはわかりますよ。でもあの子も冗談や遊びで言ってるわけでもないでしょ。兄を殺した男を捕まえたい気持ちはわかりますしね』

『……過去に囚われるのは俺だけで充分だ。あの子には好きなように生きて欲しい』


 コーヒーを飲んで早河は独りごちる。本当は去っていくなぎさを追いかけるべきだったのか……追いかけたところで何もしてやれない。


『俺はできれば早河さんにも過去に囚われずに自由に生きてもらいたいですよ』


矢野は肩をすくめて天井を仰いだ。窓から差し込む夕暮れの赤い光の筋が天井を彩っていた。

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