5-3
それから2日後の4月4日。
『また来たか……』
早河は溜息混じりに呟いて事務所の扉を開けた。扉の前には赤いキャリーケースを提げるなぎさの姿。
一昨日に追い返したにもかかわらず、なぎさは昨日も事務所に来てタダ働きでいいから雇ってくれと直談判してきた。彼は呆れの眼差しを彼女に向ける。
『なぎさちゃんがここまで諦めが悪いとは思わなかったよ』
「私、思い立ったが吉日タイプなので」
それは使う意味が違う気がするが早河はその言葉を飲み込んでなぎさを事務所に入れた。どちらかと言えば、正しいのは猪突猛進の方だ。
『昨日はどこ泊まったの? ネットカフェ?』
「新宿駅前のカプセルホテルに……。ネットカフェよりは眠れるんです」
『女ひとりで危ないことするなぁ。あの辺りは宿泊にはオススメできないよ。それにカプセルホテルじゃなくてもっとちゃんとしたホテルじゃないとダメだ。何かあったらどうするんだ?』
元刑事だからこそ知っている街の闇がある。できれば新宿界隈の夜を女性ひとりで出歩かせたくはない。
「だって仕方ないじゃないですか。ビジネスホテルはお財布的に厳しいし、友達も新年度始まってみんな忙しくて家に泊まらせてもらえる雰囲気じゃないんです」
なぎさは口を尖らせて反論する。早河はやれやれと首を横に振り、彼女と向かい合った。
『昨日なぎさちゃんのお母さんから電話が来たよ。出版社の仕事辞めたんだって?』
「……先月いっぱいで」
途端になぎさの歯切れが悪くなる。
友達が新年度で忙しいと言うのなら、なぎさも社会人2年目の仕事に追われているはずだ。家出をしてネットカフェやカプセルホテルに寝泊まりして、こんな場所を訪問している場合ではない。
『それでお父さんと喧嘩して家を飛び出して来たと』
「まぁ……。父が怒るのも無理もないですけどね。社会人1年目の新人がたった1年で仕事を辞めるなんてとんでもないっ! って。だけど辞めることは半年前に決めていました。辞めた後のことも考えて貯金もして、考えなしのように見えますけどこれでも少しは考えているんです」
なぎさは履歴書を早河の前に差し出した。早河はそれを受け取って目を通す。昨日も履歴書を渡されたがろくに読まずに突っ返した。
なぎさとの攻防戦も3日目ともなると抵抗するにも疲れてきた。この厄介な家出人への対応は少し、いや、かなり、面倒くさい。
彼女の学歴に文句はない。高校は名門私立女子校、大学も名のある東京の四大私立大学の文学部。
なぎさは英語が堪能で大学時代に海外のホームステイ経験があると生前の香道秋彦に聞いていた。
職歴は大手出版社の一社のみ。このままここで働いていれば将来安泰だろうにと、彼はどうしてもそう考えてしまう。
自分だって公務員の職を捨てた身だ。仕事を辞めたなぎさに偉そうなことは言えない。
『出版社を辞めて俺の所で働く気でいたの?』
「早河さんの所で雇ってもらおうとは……半分は思っていました。仕事辞めようと思ったのも、早河さんが探偵になると聞いたからです。でも図々しいにもほどがあるので、タダ働きの覚悟です。出版社を辞めてフリーでも仕事はできます。バイト時代の人脈があるから少しは物書きの仕事もあるんですよ」
そういえば彼女の兄の香道秋彦もたまに思い立ったが吉日とばかりに考えなしに動く癖があった。よく似ている兄と妹だ。
『実家に戻る気は?』
「ありません。父とは絶縁状態と言うか。あそこまで怒らせてしまった以上は私も職を決めて落ち着くまでは帰らないつもりです。独り暮らしになるからライターの仕事だけじゃ厳しいし、どこかでバイトでもしようかと」
『それで俺の仕事はタダ働きでもいいから手伝いたいってことね。無茶苦茶だな』
早河は立ち上がってミル式全自動で作ったコーヒーを2つのカップに注いだ。なぎさにはミルクと砂糖をつけて彼女に渡す。
「無茶苦茶でも世間知らずとでも何とでも言ってください。私はこうでもしないと前に進めないんです。ワガママだってこともわかっています。けど早河さん言ってくれたじゃないですか。お兄ちゃんの仇をとるのを見届けて欲しいって……。それなら私も一緒にやりたい。少しでも早河さんのお仕事の手伝いをして、早河さんが兄の仇をとるところを一番近くで見届けたいんです」
なぎさの話を早河は黙って聞いていた。彼は無表情にコーヒーを飲んで黙考する。
『……仕事内容は電話番と書類作りが主になる。ほとんどが雑用だけどタダ働きはさせない。そこまで多くは出せないが給料は払うよ。出版の仕事と合わせれば独り暮らしができるくらいの稼ぎにはなるはずだ』
「……早河さん……?」
『ただし、事務所の仕事よりも出版の仕事を優先すること。もし仕事が重なれば遠慮なく出版の仕事を優先させていい。あと、一度家に帰ってご両親と今後の話をする。この条件が守れるなら君を俺の助手として雇う』
なぎさは呆気にとられていた。早河の事務所で働くことは絶望的だと半ば諦めていたからこそ、今の状況が信じられない。
「いいんですか?」
『家に帰ってお父さんと話をする。家出中のなぎさちゃんがこの条件をクリアできるならね』
早河が意地悪く微笑んだ。なぎさはムッとして彼を睨む。
「早河さんって意外と意地悪ですね」
『意外とって言うならお互い様。俺もなぎさちゃんがここまで無茶苦茶やらかす子だとは思わなかったよ。どうする? 止めるなら今のうちだけど』
「もちろんやります。家に帰るのは……条件なら仕方ないです。父とも話します」
『わかった。家には俺も一緒に行く。上司としてご両親に仕事の説明をしないといけないからね』
なぎさの履歴書を早河はデスクの引き出しにしまう。振り返ると、ソファーにいるなぎさは嬉々としてコーヒーを飲んでいた。
「そっかぁ……早河さん上司になるんですね。うわぁなんだか変な感じ!」
本当にこれでよかったのかはわからない。でもこれでいいのかもしれないと、なぎさの笑顔を見て彼は思った。
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