3-6

 浅丘美月は横殴りの雨の中をほとんど役に立たない傘を差して駅に向かっていた。

予備校の授業が終わり、外に出てみるとこの大雨。慌ててコンビニでビニール傘を調達したが、残念ながらこの強風と雨では傘を差していてもあまり意味を持たない。


ビルの軒下に潜り込み、携帯電話のネットで電車の運行情報を調べるとやはりこの雨でダイヤが乱れている。


「お母さんに迎えに来てもらおうかなぁ」


 母親に迎えの連絡をしようと思ったその時、『美月』と男の声で名前を呼ばれた気がした。周囲を見回すと目の前の通りに黒い車が停まっている。


 車の扉が開いて傘を広げた誰かがこちらに歩いて来た。傘と雨に遮られて美月にはその人が誰か最初はわからなかった。

黒い車から降りてきたその人は黒い傘に黒いシャツ、全身黒づくめの服を着ている。この大雨の中でもまるで映画のワンシーンのような優雅な足取りで彼は美月に近付いた。


『迎えに来たよ』


 その優しくて穏やかな声は……前にどこかで聞いた覚えがある。傘の隙間から見えた顔を美月は凝視した。


「……キング?」

『私のことを覚えていてくれて嬉しいよ』


キングと呼ばれた男が片手を差し出す。


『さぁ、行くよ』

「行くって?」

『迎えに来たと言っただろう? 家まで送るよ』


 キングは美月の足元に置かれた予備校の教材の入るバッグを持ち、美月の手を引いた。いきなりの美月は事態に唖然として何も言えないまま、キングに連れられて歩き出す。


彼の差す大きな黒い傘に二人で入るが、キングは美月が濡れないように美月の方へ傘を傾けている。傘の守りを失ったキングの肩は雨で濡れていた。


(自分が濡れちゃうのに……)


大切な宝物を扱うみたいに自分に接するキングに戸惑った。


 キングと会うのはこれが三度目になる。最初は去年の夏、静岡であの連続殺人事件が起きていた最中だ。二度目はその年の冬、学校に登校する時の駅のホームで。

そして三度目が今日。


 キングの車は外国製の左ハンドルのツーシーター。高校生の美月が見ても高級車だとわかる。

助手席は右側。まだ運転免許のない美月は慣れない右側の助手席に腰を降ろした。

左側にキングが座る。


『はい。これで拭いて』

「ありがとう」


渡されたタオルは素材がふかふかしていてローズの香りがした。キングと言う人間はいちいちフランス映画の紳士に似た気の利く男だ。


 濡れた髪を拭いている時、ふいにくしゃみが出てしまった。美月のくしゃみを聞いたキングが手を伸ばして彼女の濡れた髪に触れる。


『大丈夫かい?』

「うん……けっこう雨に濡れたから。コンビニの傘、全然役に立たないんだもん」

『朝は晴れていたからね。そうか、すぐに体を温めた方がいいな』


 彼は美月の髪を慣れた手つきでタオルドライをした後、携帯電話を取り出して何か操作をしていた。キングの携帯電話もやっぱり黒色だった。何から何まで黒一色の人だ。


 車が雨の東京の街を駆け抜ける。車内にはラジオが流れていて、寺町法務大臣拉致のニュースが流れていた。初耳のニュースだ。


(法務大臣って死刑執行命令を出す人だっけ)


寺町法務大臣の顔が美月にはどうしても思い浮かばなかった。


 キングの運転はこの人物の象徴のように優雅が滑らか。

車は都内の主要道路を走っていく。車窓を流れる景色を見て美月はだんだん不安になった。


「あの……キング? 私の家の方向と違う気がするんだけど」


 美月の家は世田谷区にある。フロントガラスの向こうにある道路表示版を見ると車は明らかに世田谷区とは違う方向に向かっていた。


『美月の家には向かっていないよ』

「ええっ?」

『もう少し美月と一緒にいたくなったからね。寄り道』


驚く美月とは対照的にキングは平然としている。


「寄り道って……」

『じきに到着するから待ってて』


 穏やかな口調でそう言われてしまうと反論もできない。不思議なことに不快感は感じなかった。


(急いで帰らなくてもいいし、キングと一緒にいるのも嫌じゃないからいっか)


 美月は抗議を諦めてシートに深く座った。乗り慣れない右側の助手席から見えたのは美月が訪れる機会のない港区の風景だった。

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