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上野と香道は資料室に入った。埃っぽい室内にはスチール棚に過去の捜査資料がファイルに入れて保管されている。資料の電子データ化が進んでいてもデータ化されていない資料はまだ山のようにある。
『1年前の夏、静岡で起きた殺人事件覚えてるか?』(※)
『1年前……ああ、警部が泊まったペンションで起きたあの事件ですよね。議員の息子が殺された』
1年前の夏、静岡の海沿いの町で起きた連続殺人事件は顛末に不明な部分を多く残したまま幕引きとなった。
(※早河シリーズ序章【白昼夢】)
『そうだ。あの事件の犯人だった男はある犯罪組織に所属していた可能性があった』
『それって早河が掴んできたネタですよね。確かヤクザと宗教団体が混ざったような組織だとか』
『ある意味言い得て妙だと思ったよ』
香道には今の上野の表情はどことなく悲しげに見えた。彼のこんな顔は初めて見る。
『早河の親父さんが刑事だったことは知ってるよな』
『もちろんです。警部の先輩だった人ですよね。早河が高校生の時に亡くなったと聞いていますが、その時にはもう刑事を辞めていて殉職ではなかったんですよね』
『早河の親父さん……
『組織って……』
上野は資料室を見渡した。室内に所狭しと並ぶ棚の中にあるものはただの資料ではない。
それは事件の数だけ流れた涙と血の塊だ。
『武志さんが追っていた組織については警察内部でもトップシークレット扱い。組織関連の捜査資料も一部の警察幹部のみが閲覧を許されている。マスコミにも組織の情報はシャットアウトされ、世間一般には知られていない犯罪組織だ』
『日本にそんなものがあるんですか?』
『あった……と言う方が適切だな。組織の名前はカオス。30年以上前に作られた犯罪組織だ。この組織には犯罪者を神と崇める信者のような会員が大勢集まっていた。まるでヤクザと宗教団体が混ざったような、な』
そこまでの話で香道は勘づいた。
『それってさっきの去年の静岡の……』
上野は香道に頷くだけでまた話を再開する。
『カオスには組織の人間ひとりひとりに組織での名前がつけられている。通称のようなものだ。組織の中でも最高幹部、カオスのトップには“キング”の名が与えられる。カオスの創設者にしてキングの正体は辰巳佑吾。警察官であるお前なら辰巳の名前は聞き覚えあるだろ?』
『辰巳佑吾……あの世田谷無差別殺人の?』
1965年11月、十四歳だった
辰巳が殺した人数は幼い子供を含めて計十三人。その中には妊娠中の女性もいた。両親を合わせると十五人の人間を一日で殺害した。
当時の日本に衝撃をもたらしたセンセーショナルな事件だ。
『辰巳は両親を殺害後、無差別に人を殺し少年刑務所に服役していた。しかし心神喪失と判断され7年の刑期を終えて出所。その後にあいつは犯罪組織カオスを創った。俺は今でも辰巳は心神喪失ではないと思っている。あいつは世に出してはならない人間だった。フィクションに出てくる殺人鬼なんてものが現実にいるとすれば辰巳のような人間を言うのだろう』
上野の握り締めた拳が震えていた。故人の早河武志とその後輩の上野、そして辰巳には何かしらの因縁があるのかもしれない。
『武志さんは辰巳を追うために刑事を辞めて探偵になった。あの人は生涯をかけて辰巳を追い続けていた』
『彼はどうしてそこまで辰巳にこだわっていたんです?』
『……武志さんの奥さんの美知子さんが辰巳に殺されたんだ』
香道は息を呑んだ。早河武志の妻、つまり早河の母親は事故で死んだと早河から聞いていた。
『でも早河からはお袋さんは事故で亡くなったと……』
『武志さんが早河にそう伝えていたんだ。美知子さんが亡くなる前、武志さんはまだ刑事をしていてある大企業の重役が殺された事件を捜査していた。犯人は捕まったが、どうやらそいつを裏で操っていた人間がカオスのメンバーだったんだ。武志さんはカオスについて独自に調べ、創設者が世田谷無差別殺人の辰巳だと突き止めた。そのことを当時の上司に報告したが、上層部は武志さんにこれ以上カオスに深入りするなと命じた』
『なぜです? もしかして辰巳と警察上層部が繋がっているとか?』
警察上層部が犯罪組織の捜査を禁じる理由は警察にいる香道には大方の予想がつく。だが上野はそれについては首肯をせず、難しい顔で香道を睨んだ。
『香道。ここから先は本当にトップシークレットだ。外部に漏れたら洒落にならない。いいな?』
『はい』
『辰巳佑吾の母方の曾祖父は元内閣総理大臣の
元内閣総理大臣の曾孫が犯罪組織のトップ。この事が公になれば日本政府は国民や世界から不信感を抱かれることになる。
『それは……バレたら洒落になりませんね』
『最悪日本が崩壊しかねない。政府と警察は辰巳の血筋を隠そうと必死だった。両親を殺した時の辰巳の心神喪失も警察、検察、政府が手を組んで仕組んだでっち上げだ』
『だから上層部は早河の親父さんに深入りするなと命令したんですね』
上野は今度は頷いて、資料室の外に人の気配がないことを再確認してまた机に腰掛けた。
『武志さんは理由も知らされずにカオスに関するあらゆる捜査を禁じられた。しかしあの人はまぁ……権力に屈しない人だった。彼は極秘でカオスを追い続けたがそのせいで早河と美知子さんが辰巳の標的になってしまった』
『辰巳も早河の親父さんの存在に気付いたんですね』
『そう、辰巳も武志さんの身辺を調べていた。奴が目をつけたのはまだ幼い早河だった。あの日は久しぶりに家族で出掛けた休日だったのに……武志さんの目の前で美知子さんは早河を庇って辰巳の手下にナイフで刺されて亡くなった』
衝撃的な事実に香道はすぐには言葉が出なかった。静まり返る資料室の窓から差し込む光が香道と上野の二人の影を壁に映す。
『早河の親父さんは辰巳を憎んだでしょうね。目の前で奥さんを殺されて』
『いつか俺があいつを牢屋にぶちこんでやる、それが武志さんの口癖だったよ。ようやく辰巳の居所を掴み、俺と武志さんは辰巳のアジトに向かったが、そこに辰巳はいなかった。俺達の動きを監視していた警察上層部が辰巳に情報を流して逃がしたんだ。その時の俺と武志さんの上司があの門倉警視総監だった』
孫が誘拐され、自身も射殺された門倉警視総監の名が挙げられて香道は戸惑った。
『まさか門倉総監が辰巳を逃がした?』
『そうだ。当時は警視だった門倉総監は俺と武志さんの動きを上層部に報告していた。上司に裏切られた武志さんは警察を辞めて探偵になり、辰巳を追い続けた』
上野は懐から銀色のライターを取り出した。ずいぶん年季の入った物だ。
ライターにはT.Hとイニシャルが刻印されている。
『これは早河の親父さんのライターですか?』
『ああ。早河武志のT.H。彼の形見だ。武志さんが警察を辞める時に俺にくれた物だが本来は早河に渡してやるべき物だよな。あの人は息子の早河にも本当のことを言わずにたったひとりで……。12年前の8月、ついに武志さんは辰巳に辿り着いた』
差し込む光に上野は目を細めた。机に置かれたライターが太陽の光を反射している。
『あと一歩のところで……武志さんは辰巳に殺された。俺がその場所に駆けつけた時には二人の死体があった。ひとりは武志さん、もうひとりは辰巳だ』
『辰巳が死亡したことは知っていましたけど、一体どういう経緯で辰巳と早河の親父さんはそんなことに?』
『わからない。辰巳は正面から心臓を一発撃ち抜かれていた。状況から考えれば武志さんが辰巳を撃ったと思われたが、あの人は警察を辞めていて銃の所持はしていなかったはず。それにどんなに憎い相手が目の前にいても武志さんは人を殺さない。しかも武志さんの方が武志よりも死亡推定時刻が微妙に早かった。武志さんが先に殺された後に辰巳が何者かに殺されたんだ』
状況整理が追い付かない香道は乱暴に頭を掻いた。最初に殺されたのが早河武志、武志を殺したのは辰巳だとして、辰巳を殺したのは?
『辰巳を殺した第三者がその場にいたってことですよね?』
『ああ。だが現場は寂れた貸ビルだったんだが、地元の不良の溜まり場になっていたそこには多くの人間の指紋やDNAで溢れていて、辰巳を殺した第三者の痕跡は見つけられなかった。結局、辰巳を殺した人間の正体はわからないまま12年が経つ。もうすぐ武志さんの命日だ』
『辰巳が死んでカオスはどうなったんですか?』
『創設者であるトップが死んだんだ。その後に相次いで幹部が自殺したことで俺も警察上層部もカオスは自然消滅したものだと思っていた。だがキング……』
上野の口振りはもはや過去形。彼はその名を小さく呟いた。
『1年前の静岡の事件でペンションオーナーの姪の浅丘美月が何者かに拉致された時、その何者かが彼女にキングと名乗ったらしい。その時から嫌な予感を感じていた』
『辰巳に代わる誰かがカオスのキングを名乗っていると?』
『もしかしたらトップが辰巳ではなく“別の誰か”に代わったカオスが復活したのかもしれない』
上野の考えは飛躍しているともとれるが、完全に否定もできない。しかしそれよりも香道には腑に落ちない点があった。
『もしカオスが復活していたとしてもなぜ俺に話すんですか? 関係があるとすれば早河のはず……』
『早河にすべてを話せば何をやらかすかわからない。なにせ両親のどちらもカオスの人間に殺されているんだ。だからこの件はまだ早河には言うなよ。時期を見て俺が話す』
上野の念押しに香道は深く頷いた。
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