2‐3

 香道秋彦は台東区の総合病院の一階にあるラウンジのソファーに座っていた。

花束を持った女性が子供の手を引いてすぐ側のエレベーターに乗り込んでいく。誰かのお見舞いだろう。


彼は腕時計を見た。そろそろ約束の時間だ。香道が目線を上げたちょうどその時、下りのエレベーターから降りてきた白衣姿の女性が視界に入った。

その人は香道に向けて片手を挙げる。香道も手を振り返した。


『仕事中に悪い』

「仕事中なのはお互い様でしょ。刑事さんがこんなとこで油売ってていいの?」


 この病院の小児科に勤務する小児科医の桐原恵は微笑んだ。香道が肩をすくめる。


『たまたま近くを通りかかったんだよ。こうでもしないと会えないからな』

「そうだね。少し痩せた? ちゃんと食べてる?」


ソファーに並んで座った秋彦と恵。彼女は彼の顔を覗き込んだ。前に会った時に比べて彼はやつれたように見える。


『恵先生が診察してくれますか?』

「バーカ。私の担当は子供だ」


 恵と冗談を言い合って笑う時間が香道の癒しと活力だった。彼女の笑顔をこの先もずっと見ていたい。


『……恵』

「ん?」

『いや……』


 いざ“その話”を切り出そうと思うと言葉が出ない。香道は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。


『……最近なぎさと会ったか?』

「ううん。最近は会ってないよ。なぎさちゃんも今年から社会人でいろいろと忙しいだろうしね。なぎさちゃんがどうかしたの?」


恵となぎさは本当の姉妹のように仲が良い。なぎさが大学生の頃は香道の関知していないところでも二人は頻繁に会っていた。


『なぎさが不倫してるみたいなんだ』

「えっ? 本当?」

『相手の男と一緒にいるとこ見掛けて……。たぶん俺より年上……ってことはだぞ? なぎさと一回りは離れているんだ。それに見た感じは既婚者なんだよ』


 病院には様々なアナウンスが流れ、外来に行き交う人々の会話でざわついているため、二人の会話が誰かに聞かれる心配はない。


「あのなぎさちゃんが……。でも恋愛は何があるかわからないものね」

『アイツも子供じゃないから好きにさせておけばいいと思う。だけど相手に妻子がいるなら話は別だ。下手をすればなぎさが相手の家族から訴訟の対象にされる場合もある。俺が何を言っても聞かないだろうから恵からなぎさにそれとなく聞いてくれないか? お前にならなぎさも本当のこと話すかもしれない』

「わかった。けど秋彦ってホントにシスコンだよねぇ」

『うるせぇ』


 恵にからかわれて香道は膨れっ面でそっぽを向いた。ここは恵の職場であるから表立って恋人らしい振る舞いはできない。身体で隠すようにして繋いだ手から相手の体温を感じた。


「大事な妹をどこぞの男に盗られてたまるか! って?」

『当然だ。なぎさの相手になる奴はもっとちゃんとした男じゃないと』

「それをシスコンって言うの。そうねぇ……早河さんはどう? なぎさちゃんと年齢もそれほど離れていないしぴったりだと思う」


恵は香道のバディの早河とも顔馴染みだ。しかし香道は彼女の意見に唸った。


『早河か。アイツはいい奴だよ。でも早河にはほら、彼女がいるだろ?』

「あー……失念。そうだった。早河さんなら秋彦はなぎさちゃんの相手に認めると思ったのに。秋彦、早河さんのこと大好きじゃない?」

『おい、誤解を招くこと言うなよ』


香道は苦笑いするが恵の言葉を否定はしない。香道にとって早河はいなくてはならない唯一無二の相棒になっていた。


 恵とのわずかな安らぎの時を過ごして香道は病院を後にする。すっかり暑くなってしまった車内を冷房で冷やし、溜息をついた。

今日も言えなかった。


“結婚しよう” この言葉が言えるのはいつになるのか。

彼は駐車場から見える病院の建物を名残惜しく見つめていた。

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