第一章 逆光

1-1

2007年7月20日(Fri)


 ──遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。誰かが自分の名前を呼んでいる──


『……河、早河』

『……え?』


 早河仁は伏せていた顔を上げた。見上げるとすぐ側に男が立っている。


『あ……すいません』

『大丈夫か? お前が居眠りとは珍しいな』


香道秋彦は陽気に笑いながら早河にコーヒーカップを渡した。


『ほら、コーヒー淹れたから飲めよ』

『いただきます。大丈夫ですよ。少し寝不足なだけです』


早河はあくびをすると香道が淹れたブラックコーヒーをすする。眠気覚ましにはちょうど良い苦さだ。

香道は早河の正面のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。


『品川の強盗殺人の一件で徹夜続きだったからな。デカイ山ひとつ終わると気も抜ける。昇任試験の勉強は進んでるか?』

『あまり……。俺、昇進ってどうにも気が進まないんですよね。ノンキャリアなら出世もたかが知れてますし階級に興味持てなくて』


 デスクに山積みになった昇任試験関連の参考書から早河は目をそらした。そんな彼を見て香道は快活に笑う。


『お前みたいな奴、警察じゃ珍しい部類だよ』

『そうですか?』

『ああ。今も昔も警察は政治家と同じ。派閥に権力争い、出世のために事件を利用する連中ばかりだ』

『だから俺はそんなものに巻き込まれるのはごめんなんですよ。下っ端のままでいれば変な派閥争いに巻き込まれずに済みます』


書類の束をうちわにしてあおぐも、節電で微風設定になっている冷房の風は早河のもとまで届かない。


『その考えは正解さ。昇進なんか本当はしない方がいい。上に行くほど身動きがとれなくなる』

『じゃあ香道さんはどうして警部補になったんですか?』

『それはまぁいろいろと……な。しかしこうして事件がない日は俺達もやってることはサラリーマンと変わらないな』


香道はパソコンを打つ手を休めて凝った首や肩を回した。早河も同意する。


『確かに。デスクに向かってパソコン打ってる俺達が職業としてはこれでも刑事なんですよね』

『警察が暇なのはけっこうなことだけどな。お前としちゃ、受けたくもない試験の勉強よりも捜査してる方がいいんじゃないか?』


クリップで留めた書類の束を持って香道は立ち上がり、無人となっている捜査一課長のデスクに書類を置いた。


『そりゃあ捜査で動き回っている方が性に合いますよ。でも事件が起きればそれだけ被害者の悲しみもあります。被害者だけじゃなく加害者側の家族の人生にも影響が出る。警察があくせく働かないといけない事件が起きずにいてくれればと思ってますよ』


 早河はついこの前も殺人事件の被害者遺族の涙を見た。夫に先立たれた妊婦だった。

その殺人事件を犯して男にも妻子がいた。加害者の子供はまだ3歳だ。

これから先、夫を失った被害者遺族と殺人事件の加害者家族、ふたつの家族を待ち受ける人生を思うとやりきれない。


『早河は優しいよな。刑事にしては優し過ぎて心配になるくらいだ』

『優しくないですよ。俺は自分のことしか考えられないんです』


早河の自嘲気味な返答に香道は何か言いかけたが、彼は黙って相づちを打つだけだった。多くを語らない早河の数少ない言葉の裏側にあるものを香道は理解しているつもりだ。


 香道が淹れてくれたコーヒーを飲み終えて早河は腕時計を見た。間もなく午後3時。

最近よく思う。自分はどうして刑事になったのか、何のために刑事を続けているのか。


 雑然とする捜査一課のフロアに早河と香道の上司の上野恭一郎が現れた。


『早河、香道。今から一緒に来てくれ』

『何かあったんですか?』

『来ればわかる』


普段は穏和は雰囲気を持つ上野の表情が固いことに部下二人は重大事件発生の予感を感じた。

三人は警視庁内の渡り廊下を渡り、第一会議室の扉を上野が慎重にノックする。扉を開けて先に上野が入り、続いて香道、最後に早河が入って扉を閉めた。


 コの字型に組まれた長机には見るからに警察上層部のわかる制服組の人間達が並んでいた。室内の威圧感に早河と香道は萎縮して頭を下げる。

下座のひとりが言葉を発した。


『早河刑事はどちらですか?』

『彼が早河です』


上野が早河の肩に触れる。上座にいる男が鋭い視線を早河に向けた。品定めをするように上座の男は早河をねめつける。


『上野警部。本当に彼に任せて大丈夫なんだろうね?』

『早河は優秀な刑事です。ご心配には及びません』


 上座の男と上野の間で交わされる意味のわからない会話に蚊帳の外に置かれている気分になり、早河も香道も困惑した。


『万が一の事態があればわかっているね?』

『その時は私が全責任を負います』


しばらく沈黙が続く。どうやり過ごしていいかわからない静かな時の流れ。全身に突き刺さる鋭い視線を四方八方から感じて居心地が悪い。


『……よろしい。後のことは君達に任せる』


 上座の男が立ち上がったのを合図にして他の男達も席を立ち、上座の男を先頭にしてぞろぞろと会議室から出ていった。

制服組の最後のひとりが出ていくまで頭を下げ続けていた早河達は再び閉ざされた扉と共に頭を上げた。


『警部、これはどういう……』

『急に悪かった。順を追って話す』


 上野は一枚の写真を机に置いた。花壇の前に立つ小学校低学年くらいの少女が写っている。


『門倉唯、八歳。門倉警視総監の孫だ。この子が昨日誘拐された。犯人からの身代金要求は五千万。早河、お前に身代金の受け渡しを頼む』

『俺が? どうして……』

『それが犯人の指示なんだ。これが警視庁宛に届いた脅迫状のコピーだ』


上野は四つ折りにしたコピー用紙を広げて早河に見せた。

脅迫状の差出人はイイジマユウスケ。おそらく偽名だろう。

身代金受け渡しには警視庁捜査一課の早河仁を指名する、早河以外の者とは取引は行わないと明記されていた。


『イイジマユウスケの名前に心当たりはあるか?』


脅迫状のコピーを見た香道が早河に尋ねる。早河はかぶりを振った。


『まったく。よくある名前ですし偽名かもしれません。どうして俺が指名されるのかも見当がつきません』

『お前を指名した理由はわからない。が、従わなければ門倉唯の命の保証はない。早河、やってくれるか?』


 誘拐犯に名指しされる理由もイイジマユウスケの名にも心当たりはない。だがやらなければ門倉唯の身が危険だ。これは刑事としてやらなければならない仕事。


『わかりました。やります』

『香道には早河のサポートを頼む』

『はい』


早河と香道はバディを組んでいる。早河の補佐は香道にしかできない。


『犯人についてわかっていることは?』

『門倉唯が通う私立小学校は昨日が一学期の終業式で普段よりも帰宅時間が早い日だった。しかし唯は午後になっても帰宅せず、警察に通報があったのは午後5時になってからだ。帰り道に誘拐されたと思われるが目撃証言はない』


 机に広げられた地図には門倉唯が通う小学校と唯の通学路が蛍光ペンでマークされていた。


『この一件はマスコミには伏せている。警視総監の孫の誘拐となればマスコミが騒ぎ立てて厄介だからな』

『それで警察のお偉い方が勢揃いしていたってことですね。今の警視総監の門倉さんって確か去年の人事で総監に上がった人ですよね。俺、顔よく知らないんですけど……』


香道はもぬけの殻となった会議室を見渡した。上野が苦笑して机に腰掛ける。


『捜査本部の会議でも総監に会う機会はめったにないから仕方ないよな。あの上座にいた人が門倉警視総監だ』


 早河も香道もろくに見ていない警視総監の顔は思い出せないが、あの高圧的な口調は思い出せる。


『門倉総監は昔、捜査一課にいたことがあるから俺はあの人のことはよく知ってるよ。俺と早河の親父さんの上司でもあった』

『親父の?』


早河の父親はかつて警視庁の刑事だった。上野は早河の父親の部下だ。


『上司と言ってもあの頃は警視だった総監と早河警部補は当時かなり対立していて険悪な仲ではあったんだ。もちろんあちらもお前が早河警部補の息子だと承知しているだろう。その人の孫の身代金受け渡しに早河が指名されるとは因果なものだな』


 過去に父親と対立していた男の孫娘の写真を早河は見つめる。門倉警視総監と父親の仲がどうであれ、この少女には何の罪もない。

助けてあげたいと心底思う。


『身代金受け渡しは明日の午前10時。場所はお台場海浜公園』

『また人の多いところを狙ったものですね。休日の台場なんて』


 香道がメモをとる。明日は土曜日、それも関東周辺の学校は夏休みに入り、人で溢れかえることは予想がつく。

門倉唯誘拐事件の捜査会議が午後7時開始と告げられた時、早河の脳裏にある女性の顔が浮かんだ。

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