第二章 夏の記憶

2‐1

 門倉唯を発見できず失意のまま早河達は警視庁に戻った。

早河以外の刑事達は人形があった工場付近の聞き込みや会議で出払い、捜査一課のフロアには早河だけが残されている。


午後8時、空腹の胃にカップラーメンとコンビニのおにぎりを流し込み、簡素な夕食を終えた早河は今日の出来事を振り返った。


(アイツは一体誰なんだ?)


もやもやとした気持ちの悪い感情。わかりそうでわからない歯がゆさ。


(俺は……何かを……忘れている?)


 蝉の鳴き声……暑い日差し……並んで歩く影法師…


「あの……」


 廊下とフロアを隔てるカウンター越しに声が聞こえた。茶色く染めたロングヘアーを緩く巻き、渋谷や原宿でよく見かける流行りのワンピースを着た若い女が立っていた。


『君は……確か香道さんの妹さんだよね?』


早河は女に見覚えがあった。警察関係者や事件関係者以外でこのフロアまで入って来られる人間は警察官の身内だけだ。


「はい。香道秋彦の妹のなぎさです」


 香道なぎさはロングヘアーの毛先を揺らして早河に会釈した。彼女は男モノの旅行鞄を持っている。


『香道さん外に出ているんだ』

「そうですか……。じゃあこれ……。今日も泊まりだって言うから持って来たんですけど、兄に渡してもらってもいいですか? こっちは差し入れで、皆さんで召し上がってください」

『うん。差し入れもありがとう』


早河はなぎさから香道の荷物が入った旅行鞄と和菓子店の紙袋を受け取った。なぎさは何故かホッとした表情で踵を返そうとする。まるで香道に会わずこのまま早く帰りたがっているみたいに。


「それでは失礼します」

『ちょっと待って』


 彼女が香道に会わずに早く帰りたがる理由に見当がついた早河は思わず彼女を引き留めていた。


『少し話せるかな?』


なぎさは戸惑いがちに早河を一瞥して頷いた。早河は彼女をエレベーターホール脇のソファースペースに連れて行き、自販機で飲み物を二つ購入した。


『俺は香道さんの後輩の早河と言います。なぎさちゃんは覚えていないかもしれないけど、5月頃に渋谷で君を見かけたんだ』

「覚えていますよ。あの時ですよね」


バツが悪そうに、なぎさは早河に渡されたレモンティーのタブを開けた。


 早河が香道秋彦の妹のなぎさと初めて顔を合わせたのは2ヶ月前の5月、ゴールデンウィークも明けた土曜日の夕方だった。

その日は殺人事件の捜査で渋谷の円山町のラブホテル街で早河と香道は聞き込みをしていた。聞き込みを終えてそろそろホテル街を出ようとしていた頃、あるホテルから出て来たばかりの男女とすれ違った。


年齢は三十代半ばから四十代の小綺麗な身なりをした男の隣には、ファッション雑誌のページかやそのまま飛び出してきたかのような流行りの服に身を包んだ若い女がいた。その女が香道なぎさだ。


 妹が男と腕を組んでホテルから出て来たことに驚いた香道はその場でなぎさを追いかけ、彼女を問い詰めた。なぎさは男を恋人だと紹介し、男もにこやかに香道に挨拶していたが、彼は疑心の眼差しを二人に向けていた。


もしも連れの男がなぎさと同年代の男ならば香道も狼狽えはしてもあそこまで怒りを露にしなかったと早河は思う。しかしどう見てもあれは…


『香道さん、なぎさちゃんのこと心配していたよ』

「兄はシスコンなんです。いつまでも私のこと子供扱いして」

『ははっ。まぁ多少はシスコンだなと俺も思うよ。でも俺も気になっていたんだ。あの時一緒にいた君の彼氏……結婚してる人だよね?』


なぎさは溜息をついて苦笑した。


「兄も早河さんも凄いですね。あの時、彼は結婚指輪を外していたのにどうして既婚者だってわかったんですか?」

『刑事の勘かな。普段から色んな人間見てるから』

「刑事の勘は怖いなぁ」


 なぎさの左手薬指に指輪はない。ホテルから出て来た男が既婚者であるなら彼の妻はなぎさではない。


「私、出版社で働いていて……」

『じゃあ同じ会社の?』

「彼は会社は違いますけど同業者です。大学時代から出版関係のバイトをしていて、業界のイベントの手伝いの時に彼と知り合いました。奥さんがいるのはわかっていたのに就活の相談に乗ってもらってるうちに好きになっちゃったんです」

『そっか。今もまだ付き合ってるの?』


早河の問いになぎさは首を縦に振る。


 人の恋愛に口を挟むほど早河はお節介ではない。誰が不倫をしようが浮気をしようが所詮は他人事だ。いつもなら傍観していただろう。

なぎさは先輩刑事の妹、自分とはただそれだけの繋がりなのに早河はなぎさをほうっておけなかった。それはきっと2ヶ月前の渋谷で反抗するなぎさを見送った香道の寂しい眼差しを見てしまったからだ。


「あれから兄とは全然話をしてなくて……。たまに兄が家に帰って来てもシカトしてしまうんです。彼とのことちゃんと話さなくちゃとも思ってはいるんです。不倫なんて自分は絶対にしないと思っていたのに最低ですよね」

『なぎさちゃんは人を好きになっただけだよ。たまたま好きになったのが相手がいる人だったんだ。悪いのは結婚していながら君と付き合う男の方だよ』


なぎさを責める気はない。責められるべきは妻がいる身でなぎさの好意を利用する男だ。


 なぎさは今度は泣きそうなくらい弱々しい笑みを見せた。いや、すでに彼女の瞳の奥は潤んでいた。


「早河さんて優しいですよね」

『彼女にはよくドS刑事と言われるよ』

「ふふっ。早河さんが彼氏だなんていいなぁ。彼女さんが羨ましい」


綺麗にマスカラが塗られたなぎさの目元にはメイクでは隠し切れないクマが目立っていた。不倫男のことで相当悩んでいるのかもしれない。


「彼と別れたら私から兄に話します。だからそれまで兄にこのことは……」

『うん。香道さんには黙っておくよ。ちゃんとなぎさちゃんから話してあげて』

「はい。……あの、早河さん。兄はあれでけっこう無茶する人なんです。めちゃくちゃ真面目だから一度爆発すると無茶するって言うか……弱音も吐かなくて。だから兄のことよろしくお願いします」


 香道に反抗していても本当は兄を思いやる優しい妹だ。早河には兄弟がいない。香道のような兄のいるなぎさが、なぎさのような妹がいる香道が、羨ましく思えた。


『こちらこそ俺の方がいつも香道さんに世話になってるからどこまで頼りになるかわからないけど……』


早河となぎさは笑い合った。

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