5-5
鉄の扉の先には長い廊下が続く。等間隔で左右に銀色の扉が並び、扉にはナンバーがついていた。
鉄の扉の外と中では世界が真逆だ。扉の外が賑やかなキャバレーなのに対し、扉の中の空間は静寂に包まれ人の気配がない。
『ここから先はビジネスルームと呼ばれている。すべての部屋が完全防音になっているんだ。ママから渡されるカードキーと暗証番号を知ってる者しかここには入れないし、ビジネスルームの存在を知る人間も少ない。店自体が会員制だが、ここに入れるのはその中でも一握りの人間だけだ』
「凄い設備ですね」
『秘密の話をするには最適な場所ってこと。何せここを作った本人が秘密主義の人だからな』
「ここを作った人って?」
『今から会える』
彼はナンバー15の部屋の前で立ち止まった。インターホンを押すと数秒でロックの外れる音が聞こえた。
『失礼します』
銀色の扉を押し開けて早河はなぎさを連れて中に入った。6畳程度の部屋には丸テーブルとソファーが置かれ、ソファーにはスーツを着た紳士が座っていた。
『おお、仁。やっと来たか。待ちくたびれたぞ』
紳士は陽気に笑って二人を迎える。笑った顔がどこか情報屋の矢野一輝にも似た雰囲気を持つ老紳士はなぎさに視線を移した。
『しかし仁は昔からいい女ばかり引っ掛けてくるなぁ。そういうところまで武志そっくりだ。気に食わない』
『タケさん。何度も言うけど彼女は助手。なぎさ、この変な親父は武田健造。名前聞いたことないか?』
なぎさは首を傾げる。武田はよくある姓だが、
「すみません。お名前に心当たりはなくて……」
『だ、そうですよー。若い女の子にはタケさんの知名度はないらしい。残念だったね』
子供っぽく笑う早河はこの武田に心を許していると見える。早河となぎさはL字型のソファーの端に座った。
武田は明らかに気落ちして眉を下げる。
『まぁ仕方ないねぇ。私の夢は街で女の子にサインをねだられることなんだが。お嬢さん、これからは私の顔と名前を覚えていてね。私は武田健造、この国の財務大臣をしているよ』
「財務大臣っ……?」
目の前の紳士が財務大臣と知ったなぎさはさらに困惑する。確かにスーツを着こなす武田は身なりも上等で風格がある。醸し出す雰囲気も一般人とは一線を画していた。
『タケさんは俺の親父の友達なんだ』
『こいつの親父とはよく女を取り合って喧嘩をしたものだよ。仁の母親の美知子さんも最初は私が目をつけたのに武志がかっさらっていってねぇ。本当にあの時はもう……』
『ターケーさーん。昔話はいいって。あと、母さんは最初から親父一筋でタケさんには見向きもしなかったって母さんの方のばぁちゃんが言ってたぞ』
フンと鼻息を漏らして武田は酒をグラスに注いだ。なぎさが慌てて武田に酒を注ごうとするが彼はそれをやんわりと片手で制して、にこやかになぎさを眺めている。
『酌をしてもらうためにあなたを呼んだんじゃないから、そんなことをしなくてもいいんだよ。お嬢さんの事情は仁に聞いてる。お兄さんのこともね。それで仁の所に乗り込んでくるとは大した子だねぇ。名前は何と言ったかな?』
「香道なぎさです」
『良い名前だ。なぎささん、これから先、もしかすると君にも命の危険が伴うことがあるかもしれない。それでも君は仁の助手を続けられるかい?』
武田の質問になぎさは居住まいを正した。
「正直に言えば、危険が伴うと言われても私はまだよくわかっていないことが多いと思います。兄は警察官でしたけど私は今まで犯罪者とは無縁の暮らしをしていたので……。これから先のことは想像もつきません。でもやりたいんです」
『うん。いいね。素直でとても良い。お前がほだされたのもわかるな』
武田が横目で早河を見て口元を上げる。早河は憮然として、テーブルの上のノンアルコールドリンクの蓋を開けた。
ママが用意した酒のつまみは武田がほとんど平らげてしまったようで、早河はなぎさのために内線電話で軽食を注文した。
『タケさんは昔、俺の親父と一緒にカオスを追っていたんだ。俺も警察を辞めてから初めて知ったんだけどな。ついでに言うと俺の活動費やなぎさの給料はタケさんのポケットマネーから出てる』
「そうなんですかっ? じゃあ武田さんにお給料をいただくことになるんですね」
なぎさはママが運んできた軽食のクラブハウスサンドイッチを頬張る。ここに来て緊張で空腹も感じなかったが、サンドイッチは美味しかった。室内にはカラオケの機器まであり、ビジネスルームとは言っても居酒屋にいる気分だ。
『タケさんが俺らの社長みたいなものか』
『そうだぞ。公務員を辞めたお前が誰のおかげで生き延びてると思う? 社長と言うからにはもう少し私を敬ってマッサージチェアでも買ってこい』
武田は相変わらずウイスキーをちびちび舐めている。酒豪な国会議員だ。
『タケさんのどこを敬えって? マッサージチェアならタケさんの家にくそ高いヤツが何台もあるだろ。いつもは年寄り扱いするなって言うくせに』
早河と武田のやりとりは息子と父親のやりとりに似ていて、なぎさは早河の知らない一面を垣間見れて微笑ましかった。
軽食を済ませたなぎさを先に店の方に戻して早河と武田はビジネスルームに残った。
『お前、本当に彼女を守れるのか?』
『守りきれるか自信はない。でもあの子の気持ちはわかるから』
『あの子に惚れたか?』
『なんですぐにそっちの方向に話が行くんだよ。今は愛や恋なんて考えてる暇ねぇよ』
早河は舌打ちした。いつもいつもこの老人は人をからかうことばかり言う。
『ハハッ。そう言っていられるうちはいいがな。怖いのはお前かあの子のどちらかが相手に惚れた場合だ。仁、同情と愛情を間違えるなよ。同情するくらいなら愛してやれ』
『俺の女になったら不幸になるだけだよ』
視線を落として彼は呟いた。不幸にしたくないから別れた元恋人の顔は、テレビをつければ嫌でも目にする。
『いいじゃないか。一緒に地獄へ堕ちてくれる女は最高だぞ』
『はぁー……。それ絶対に実体験だろ。なぎさ待たせてるしもう行くから』
早河は武田に背を向けてビジネスルームの長い廊下に出た。薄暗い廊下の床にぼんやりと自分の影が浮かんでいる。
いつの間にか独りになった影法師。
離れていく影法師
並んで歩いていた影法師
アイツは今どこにいるんだろう…………
第五章 END
→エピローグに続く
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