第20話 自然科学館

 お盆前ながら、観光なのか里帰りなのか、土曜日にもかかわらず、市内の道路は混雑していた。やたら、県外ナンバーのワンボックスカーの台数が多いように感じる。

 バイパスを降りて、自然科学館に向かう市道はそういう車ばかりが列を作って、一つ一つの交差点の信号に停められている。世界中から集まってきて自然科学館に向かっているのか?と思うほどだ。

 桃子は、自宅を出てすぐに眠りに入って、後部座席のチャイルドシートの右側が桃子の寝汗で黒っぽく変色している。この子にとって、車は揺り籠と同じだ。まあ、しゃべり続けられたり、ぐずられたりするよりは、ずっといい。


 自然科学館の駐車場は、遠目から見てもぎっしりで、案の定、駐車場入り口に立っているガードマン風の男が“満車”の看板の前で赤灯を振りながら第二駐車場に無言で誘導していた。この暑いのに、ガードマン風の男は、長袖の作業着に反射板の付いたベスト着て、しかも、ヘルメットをかぶっていた。工事現場ならまだしも、なぜに、自然科学館の駐車場ごときで熱中症に掛かりそうないでたちなのかははなはだ疑問だが、すぐに、駐車場の空きを探す方に気持ちが切り替わった。

 白いセダンが停まっている隣が空いていたので、バックで入って停車すると「ビッ」と鋭いクラクションの音がした。音がした左を向くと、タカマリがこちらを見ながら手を激しく降っていた。

(やれやれ、ドイツ車のセダンか…)

 タカマリの車のウインドウが下がったので、俺も、助手席のウインドウを下げた。


「おはよう、清水君。また、すごい偶然ね、隣同士なんて」とタカマリは言った。


「思っていたより混んでいるね」タカマリのある意味を込めた言葉には返答しないで俺はそう言った。


「そうね。私、友達から『この時期の自然科学館なんて激混みよ』って言われたからさ、サンドイッチ作ってきたの。館内のどこかで4人で食べよ」とタカマリは言った。


「桃ちゃん、桃ちゃん、着いたよ。起きな」


 俺は、後部座席でよだれを垂らしながら眠りこけている桃子に声を掛けた。


「ん?んっん…え、もうついたの?」


「うん、着いたよ。礼君のお母さんがサンドイッチ作ってくれたんだって。科学館で一緒に食べよ」


「えええ、やった~!ももこ、サンドイッチだ~いすき!」


 いつもなら、起こしてもすぐに起きなかったり、ぐずるか、怒り加減でムスッとしたりする桃子も、この時ばかりはすぐに飛び起きた。


 エンジンを停めて車外に出ると、そこは、もう、ミストサウナのような熱気と高湿度の世界だった。


「今日も相変わらず熱いわね。清水君、今日はどうもありがとう。あ、桃子ちゃん、今日はどうもありがとうね」運転席から出たタカマリはそう一通りの挨拶をした。今日の彼女のいでたちは、白地に黒いボーダーのTシャツ、そして、ベージュのスラックスだった。

 彼女は、後部座席のドアを開けて、チャイルドシートに座っている礼君を降ろす介助をした。


「よし、いいよ、礼。車の天井に頭をぶつけないように。そう、足はここに置いて」


 礼君は、ネイビーのTシャツにオリーブ色の七分丈のズボンをはいていた。


「礼、清水君と桃子ちゃんよ」


「こんにちは」


 俺たち二人が立っている位置が分かるのか、俺たちの方を見ながら挨拶をした。


「レイくん、こんちには!どう?きんぎょさん、げんきでいる?」


「うん、おかあさんに、すいそうをかってもらって、そこでげんきにしてる…みたい」


「そうよ、元気だわ。エサはね、私が礼の手のひらに置いてあげて、それから礼が金魚さんにあげているのよ。水面に浮かぶタイプのエサだから、金魚さん喜んでプチョプチョ音をさせてエサを食べるの。だから、礼もその音でわかるのよね~」


「そっか~うちのきんぎょさんも、おとをさせてたべてるよ!おんなじだね!」と桃子は喜んで答えた。


「さ、此処は暑いから早く中に入りましょう」


 タカマリは、右手で礼君と手をつないで、左手でキャンバス地のトートバッグを持って歩きだした。


「タカマリ、バッグは俺が持つよ」


「あ、ありがとう」


 バッグをもらうときにタカマリの指と一瞬、触れ合ったのだが、信じられないくらいに冷たかった。



 入口で入場券を買って、館内に入ると熱気から解放された。


「ああ、すずし~。あ、タカマリさん、ももこ、レイくんとてをつないでもいい?」と桃子が礼君の右側に駆けて行ってそう言った。


「うん、いいよ。でも、礼はまだこういう人混みのところを歩くの慣れてないから、桃子ちゃんは礼の右手つないで。私は左手」とタカマリは言った。


「ふふふ、桃子ちゃんにタカマリさんって呼ばれるのそんなに悪くないものね」


 そう言いながら俺の方に振り返ってウインクした。


 桃子は、こういうときは、喜んでつないだ手を大きく前後に振るのだが、目が見えない礼君のことを気遣っているのだろう、動かさないで静かに歩いた。そして、頻繁に礼君の方を覗いては短く言葉を掛けていた。



「此処で、サンドイッチ食べましょう」


 館内のエスカレータを上った2階にある休憩用にあつらえられた椅子とテーブルがいくつか置かれているスペースに俺たちは落ち着いた。ちょうど、4人が座れるテーブルが一つだけ空いてて、あとはすべて、家族連れで埋め尽くされていた。


「私、あんまり、料理に自信ないんだけど、サンドイッチだけは美味しいと思うんだなあ」


 そう言いながら、タカマリはトートバッグから3つのタッパーを出して蓋を静かに開けた。


「わああああ、おいしそ~」桃子は目を輝かせて大きな声で言った。


「えっとね、玉子サンドに、レタスとトマトサンド、それから、これがツナサンドで、これが、照り焼きチキンサンドね!」


「ももこ、ツナサンドもらってもいい? って、どれも、ぜんぶたべたいんだけど」


「うん、桃子ちゃんに気に入ってもらえてよかったわ。清水君はどう?」


「うん、どれも美味しそうだ。俺は、じゃあ、レタスとトマトサンドからいただくかな」


「ボトルにアイスコーヒー入れてきたの。清水君はシロップやミルク要る?」


「いや、俺はそのままで。あ、ありがとう」


 タカマリは持ってきた紙コップにコーヒーを注いで俺の前に置いてくれた。


「あなたたちの飲み物はオレンジジュースだけどいい?」


「うん、ももこ、オレンジジュースだいすき!」


「ん?これは、美味しいサンドイッチだ。コーヒーも濃くて美味しい」


「そう、よかった」


「このサンドイッチは、こう…野菜の味だけじゃなくて、なんか入っているのかな」


「そ。自家製のドレッシングを軽くね。礼は、玉子サンドでいい?」


 そう言いながら、タカマリは礼の手に玉子サンドを持たせた。


「タカマリさん、ツナサンドおいし~!ママにもこんどつくってもらおっと!」



 俺たち4人は、こうやって、サンドイッチをすべて平らげた。


「ね、清水君、一つお願いがあるんだけど」とタカマリが言った。


「なに?」


「礼をトイレに連れて行ってほしいの。洋式トイレの方ね。水を流すレバーだけ教えてくれれば、あとは一人でできるわ」


「そう…トイレか… わかった。じゃあ、礼君、おじちゃんとトイレに行こう」


 俺は礼君と手をつないで、男子トイレに向かった。館内は照明がそんなに明るくないから、意識的にゆっくりと歩いた。

 礼君の手は、タカマリと同じように冷たくて、そして、湿り気を帯びていた。桃子とはまた違った女の子みたいな手の温度と質感だと思った。


「じゃあ、洋式トイレはここだよ」


 俺は、礼君を個室に招き入れた。


「ちょっと、右手を貸してごらん。ここが水を流すレバーね」


 礼君は、指でその位置を確かめると「うん。わかった。あとは、ぼくひとりでできるよ」と答えたので、俺は礼君から離れてドアを閉めたけど、内側から鍵を閉めていないからドアは自然に開いた。


(やっぱり、閉めなきゃだめだよな)


 俺は、自分に言い聞かせるようにそう思って、開かないように外側から戸の取っ手を引っ張った。


(言い聞かせる? 礼君に対して? いやいや、だめだ。それはうまくない)


 俺は、この状況が早く終わることを願い始めて、小便が便器に落ちる音に耳を澄ませた。

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