第07話 アカオ

 ヨシヒトとのあの一件以来、周りの連中の俺に対する態度が一変した。

 男女ともに、俺に声を掛ける者が極端に減った。一日、誰からも声を掛けられず、気がつけば、俺もひと言も発しないで終わる日も珍しくなくなった。クラス、部活、委員会、休み時間、ありとあらゆる場面で俺は一人だった。 

 教師が授業でやらせる班学習などではだった。司会者を任される班長は、班員一人ひとりに質問や意見を求めるのだが、俺への指名は一番後回しで、しかも、「清水君はどうですか?」なんて、あだ名で呼ばずに苗字で呼ぶなど、いつも気を遣っているようでよそよそしかった。

 俺は、あの日以来、“万年弱虫野郎”ではないことを皆に知らしめるためにも、部活の練習に参加するようになったのだが、ヨシヒコをはじめとする男連中は俺と目も合わせようともしなかった。周囲が自分に気を遣っていたり、どこか俺のことを怖れたりしているような雰囲気を感じて、俺の中に一種の優越感のようなものが表れているのを感じていた。

 

 しかし、そんな特別な雰囲気も長くは続かなかった。

 席替えをした2学期のある日から状況は一変したのだった。

 すでに、3年生としての野球部の最後の大会は終わっていて、高校受検に向かって本格的に頑張らなければならない時期になっていた。

 学期に2回行われる約束になっていた席替えは、いつもくじ引きだった。基本的に男女が隣通しで、視力が悪くて前の席を希望する生徒以外は番号の書いてある四つ折りのくじを引く。くじを開くたびに「きゃー」とか「やったー!」とか声があちこちであがる。俺は、廊下側の一番後ろの席になった。ずっと、前の方の席だったから、(これで、みんなのことを後ろから眺めながら過ごせるな)と喜んでいたのだが、男子の次にくじを引いた女の子たちの群れの中からとんでもなく大きな叫び声が聞こえた。


「え~!?わたし、アカオの隣~?さいあく~勘弁してよね~」


 すると、クラスのみんなが一斉に俺の方を振り返った。

(アカオって、俺のこと?)

 しかし、叫び声をあげた高井真理子は、俺のことを睨みつけながら自分の机を俺の席の隣まで移動させてきたのだった。


 他のみんなは、いつもの通り、お互いの机をピタッとくっつけて席を並べ直したが、高井真理子だけは、俺との席の間を50cmくらい離したままでまっすぐ前を向いていた。

「おい、高井、どうした?机を清水とくっつけなさい」と担任が言っても、高井真理子は微動だにせずに前を向いたままだった。

「高井!先生が言っていることわからんのか!」と担任が声を荒げると、口をとんがらせながらわずかな隙間ができるところまで近づけたが、教師が話題を変えるとすぐに元の位置に机を離した。

 クラスのみんなは、こっそり後ろを振り返りながらクスクスと含み笑いをした。


 通称“タカマリ”こと、高井真理子は、中学校1年生のときから同じクラスで、同じ班にも何度かなったことがあったが、隣同士は初めてだった。色白で、活発で、男女ともに友達が多く、敵はいなかった。吹奏楽部でトランペットを吹いていて、美人系でかっこよかったから、俺も少なからず惹かれていたところがあった。

 が、しかし、この女は、この席替えを機会に、徹底的に俺に冷たく当たり、その雰囲気は瞬く間にクラスに、そして、学年全体に広まり、一時は萎縮したかのような俺に対するみんなの態度が変わっていたのだった。



「なんで、みんなが俺のことを“アカオ”って呼んでいるか知ってるか?」

 

 ある日の休み時間に、クラスに居る気の弱そうな男を廊下に連れ出して聞いてみた。その男は、なかなか答えようとはしなかったが、明らかに知っている素振りだったから、少し脅したら重たい口を開いた。


「たぶんね、たぶんだよ。清水君の名前の明夫を“アカ”に変えて言ってるんだよ。たぶん、たぶんだよ」

 

 必要以上に周囲の目を気にしながらも小さい声で気の弱そうな男が答えた。


「そんなん、俺だってわかるわや。その“アカ”ってなんだって聞いてんだっや」

 

 俺は気の弱い男の両足の間に、自分の足を強く踏みつけながら迫った。

  

「たぶんね、たぶんだよ。体から出る“垢”だと思う。たぶん、絶対たぶんだよ。タカマリさんが、『あの首の後ろの黒さは垢としか考えられないよ絶対。あいつ、風呂入ってないんだよ。近づいてごらん、くっさいから』って聞いたことがある。ね、ね、たぶん、たぶんだよ」


「ああ」


 俺は、もうそれ以上問い詰めることはせずに、気の弱い男を解放した。

 

 男っていうのは、拳を実際に交わして結果が出ればそれきりで、その結果に概ね従って付かず離れず距離を適当に置きながら過ごしていくんだろうけど、女っていうのは、その結果から事が始まる。怖れから絶対に近付かなかったり、逆に高井真理子のようにひどく嫌悪して攻撃的になったりするものなんだろう。そして、所詮、男っていうのは、美人で、活発で、影響力の強い女に楯突くどころか、その女の後ろに隠れて舌を出す生き物なんだろう。

 

 間もなくして、俺は、ベムでもなければ、清水君でもなく、みんなから“垢夫”と呼ばれ、根も葉もない噂話が勝手に誰かによって作られ、広められ、それまで半ば恐れていたが故に今まで聞こえてこなかった俺への陰口が俺の耳に届くようになり、そして、同じ思いの者たちが増殖して心強く感じ始めるとあからさまに「おい!垢夫!」と誰かれなく呼ぶようになるまでそう時間は掛からなかったし、不特定多数による心無い嫌がらせはすぐに始まった。

 

 廊下を歩いていると、向かって歩いてくる誰もが、わざとらしく左右に避けて背中を向けながら俺が通り過ぎるのを待った。仮に、俺に接触しようものなら、大声を上げながら友達にティッシュで接触した場所を拭いてもらっていた。

 班の人員や係の仕事を画用紙に書くときは、自分の名前と係だけ自分で書けと言われ、俺はのペンを意図的に渡された。

 給食の配膳では、毎回、じゃんけんで負けた者が俺の机に食器を置いた。

 俺が配膳当番の時は、なぜか毎回、牛乳瓶を配るように友達から指示された。そして、俺が配った牛乳瓶は、すぐにティッシュで拭かれた。

 体育のバレーボールの授業では、パスレシーブすると手が痛いから、と体育教師に断って俺とペアの男子はいつも軍手をして行っていた。しかも、軍手を毎回水のみ場で洗っていた。

 体育祭で行われるフォークダンスでは、教師がどんなに注意しても俺と手をつないで踊ろうとする女子はおらず、男だけの組体操では、腕をつかまり合いながら行う場面でも体操着を引っ張られたし、人間ピラミッドでは、俺と接触しなければいけない男は、毎回、じゃんけんで負けた者が渋々務めた。

 さすがに異変を感じた学級担任がある日、学級会を開いたが、クラス全員が口を閉ざしたままで話は進展せず、担任は授業の最後に、道徳の教科書に書いてあるようなことを牧師みたいに語って終わっただけだった。

 冬になって、風邪を引いて学校を休むと、高井真理子が音頭を取ってクラスのみんなが万歳をした(と、気の弱い男が教えてくれた)。


 大体、現在と違って、当時は、子ども同士のいじめに教師が入って解決すること自体、異例だったし、教師に泣きつくこともなかった。開かれた学級会だって、俺にとっては居たたまれない場だった。担任からの連絡を受けた親は、「お前が悪いことをしていなければ堂々としていなさい」の一点張りだった。以前、ヨシヒトを殴打した加害者の親としての遠慮もあったのかもしれないが、学校や友達の家に怒鳴り込むなんて有り得なかった。

 そして、俺は、常日頃行われる陰湿ないじめのある生活が当たり前、というある種、麻痺した感覚の中、卒業を迎えるまで学校に通い続けた。


 

 おそらく、人間というものは、自分とは違う者や自分とは違う怖れのある者に対して、周りの者たちはいつだってそうやってきたに違いない。

 最初は、怖れから気を遣って接するが、徐々に距離を置くようになり、そして、自分と同じ思いの者たちの数が増えて自信をつければ、一転して攻撃して排除しようとする。


 怒りをぶつけようにも、残念ながら、俺の拳は二つしかなく、この圧倒的な数の前ではヨシヒトを殴ったときのように役に立つことはなかったし、それを振るう気力もなかった。しかも、相手の半分は、殴るわけにはいかない女の子たちで、その筆頭にいたのが、一瞬にせよ俺が惹かれた女の子だったのだ。

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