第26話 ステッカー
「じびずざん、がだづげ、ぼばりばじだ」
腕時計の針は、16時を少し回ったところだった。剪定した葉や枝をトン袋に入れ終わった阿久津君の報告を受けた。俺は、縦にした右手のこぶしで、左の手首の甲側を2回叩いて「おつかれさま」の手話を返した。
旅館のフロントに行って作業の終了の報告をすると、旅館の女将から風呂を勧められた。
「ほんと、綺麗にしていただいてありがとうございました。おかげさまで、剪定前と見違えるようになって、庭が生き返った感じがしますわ。さあさ、ぜひ、うちのお風呂に浸かって汗を流していってくださいな」
着物を着ている女将は、暑いのに汗一つ掻かずにそう言った。
「ほんとに、よろしいんですか?うちら、こんな汚い身なりなんですが」
俺は、遠慮じゃなくて、心からそう言ったのだが、女将は全く気にすることなく風呂場に向かって歩き出しながら俺たちについてくるように促した。
俺は、風呂の手話を知らなかったので、阿久津君に向かって、洗髪や背中をタオルで洗う仕草をして伝えたら「ぼぶろ、ばいれるんでずが?」と聞いてきたので、大きく頷いて長靴を脱ぎ始めた。高級旅館の玄関の雰囲気を壊すのはうまくないので、土間の一番端に長靴を揃えて廊下に上がった。
玄関の佇まい通りの上品で古風な廊下を申し訳ない気持ちに満たされながら女将の後を付いてそろそろと歩いた。
廊下の奥の奥の方の内湯の脱衣場まで案内してもらい、風呂の説明を簡単に受けた。さすがに、バスタオルは遠慮して手ぬぐいタオルだけいただいて脱衣場に入った。
脱衣場は、白っぽい板張りで、昔の銭湯にあったような木製のロッカーに、植物のつるで編んだような衣類かごがいくつか置いてあった。扇風機も昔ながらのものに見えたので、メーカーの刻印を確かめたら「SANYO」という文字があった。
俺たちは、なるべく、作業着に着いた砂や埃が落ちないように静かに脱いで畳んでロッカーの上に置いてから、ガラガラという音をさせて戸を開いて浴場に入った。
正面の壁には、高さが5mくらい、幅が2mくらいのステンドガラス調の明かり取りがあって、本当はよくわかっていないが「大正ロマン風だな」と俺は思った。天井は思っていたよりも高く、
浴槽は思っていたよりも浅くて、お尻をついて浴槽の壁にもたれかかって脚を伸ばすと、ちょうど胸が隠れるくらいの湯量だった。
あまりにも、風情があって静かな佇まいの浴場なので、俺たち二人は会話をすることなく、ただ、湯に浸かることを楽しんだ。
しばらくすると、熱さに耐えかねたように阿久津君が湯船から上がって洗い場に行って髪を洗い始めた。阿久津君の体は色白で、両腕から手首までだけがしっかり陽に焼けていた。そういえば、俺の親父もこんな陽の焼け方をしていたな、と、小学生の頃に風呂に一緒に入ったのを俺は思い出した。親父は、熱い風呂が好きで、俺がおそるおそる湯船に入ると、両肩をつかんで無理やり湯船に俺を沈めた。俺は、お尻の穴やら睾丸やらがジンジンとして口をイの字にしているとその姿を見て親父はニヤニヤしていたものだ。
俺は、湯船から上がって阿久津君の隣に座り、(タオルをくれ)とジェスチャーした。俺は、置いてある今じゃ珍しい固形石鹸を手ぬぐいタオルにこすりつけて、阿久津君の背中にまわって洗い始めた。
「じびずざん、ずびばぜん。ぎぼちいいぼんでずね」阿久津君は、頭を下にさげながらそう言った。
俺も、一緒に入ったときは、毎回、親父の背中を洗った。
「両手で、もっと強く。もっと強くだ」と親父に言われながら上下にタオルをこすった。
阿久津君の白い背中は、白い泡の向こうで見る見るうちに紅潮して、親父の硬い背中とは違うな、と俺は思った。
「じびずざん、ぼぐ、ぼどごのびどがら、ぜだがをあだっでぼだうの、ばじべででず」
そういや、阿久津君の親はお母さんだけだったのを前に聞いたことがある。
「ぼんどうば、ぼどうざんに、あだってぼだったごどがあるのがぼしでだいでずげど、ぼう、ばずででじばいばじだ」
「ああ、そうなんだね」俺は、阿久津君には聞こえなくてもそう返答した。
俺は、自分のタオルに石鹸を付けて、阿久津君に背中を洗ってくれるようお願いした。きっと、お父さんの記憶がもうないのと同じように、人の背中を洗うのも初めてのことだろうと思った。
案の定、こする力が遠慮気味だったので、もっと強く洗うようにジェスチャーをして阿久津君に伝えた。
「びだぐだいでずが?」と心配そうに声を掛ける阿久津君に、俺は、右手でOKサインを作って見せた。
もしかして、俺が普通の性癖で、人並みに結婚していたら、阿久津君くらいの年頃の子どもが居てもおかしくないわけで、洗ってもらっている途中から、俺の親父はこんな気持ちで背中を俺に預けていたのか、と感慨深くなった。
「お風呂いただきまして、本当にありがとうございました」
「ぼぶろ、ばりがどうございばじだ」
汗が引かない顔や頭をタオルで拭いて俺たちは女将に礼を言った。
「今度、社長さんや他の従業員の皆さんで忘年会とか宿泊とかお待ちしていますよ」と女将は笑顔で言った。
「はい。その節はお世話になるかもしれません」と答えたが、こんな高級旅館でうちの会社が忘年会なんてまず、やらないだろうと俺は思った。
トラックの車内は、ずっと窓を開けっぱなしにしていたのもあって、熱はこもっていなかったが、汗が次から次へと流れ出てくるので、窓を閉め切ってエアコンを掛けた。
ラジオは、夕方のプログラムになっていて、パーソナリティの男が流暢な英語の発音で曲紹介をしていた。
5分くらい走ったところで、交差点の左側から左折してきた車に見覚えがあるような気がして、しばらく、思い出していたが、テールガラスに貼ってあるFM局のステッカーでわかった。あの、石垣を作庭した寺の副住職のディスカバリーだった。(こんな街で、なんだろう。檀家さんがいるのかな)となんとなく思いながら後ろを走った。
少し行ったところの商店街の交差点を赤信号で停められた時だ。ディスカバリーの助手席のドアが開いて、女の子が降り、アーケードにあるポストに郵便物を入れて、すぐに車内に戻った。
(ん?長女さんか?いや、中学生と聞いていたが、それよりもさすがに歳は上だ。20歳前後くらいか…)と俺は思った。
交差点を過ぎて、しばらく進んだところで、俺は唖然としてしまって、その先の赤信号の交差点で止まり損ねそうになった。というのは、副住職のディスカバリーが交差点手前にあるラブホテルの入口に入って行ったからだった。
(まさか…あの副住職が…)
(あの女の子が長女であれば…いや…年頃の娘がお父さんと一緒にラブホテルに入るはずはない)
(であれば、あの女の子は誰?ずいぶん歳が離れているような若い女だったが…浮気相手か… ん?昔の教え子? ずっと女子のソフトテニス部の顧問だったって言ってたな…)
「ビッ!」
鋭いクラクションの音が後ろからして、交差点の信号が青に変わっていることに気が付いた。
「じびずざん、だいじょうぶでずが?」と阿久津君が言った。
「あ、あゝ」
(なんてことだ。あの副住職までがこんなことを)
浮気だの不倫だのなんて、どこにでもある話で、珍しいものじゃないのはわかっているが、身近に接した人が秘密の所業をしているのをこうやって目撃してしまうと、心が穏やかでいられない。
途端に、陽に焼けたユイトの顔やら、麦わら帽子をかぶって草取りをしている住職の顔やら、味噌汁を運んでくる奥さんの顔やらが浮かんできた。そして、とうもろこしや枝豆の入ったビニル袋を差し出す腰の低い副住職が、郵便ポストに投函した女の子を抱くシーンを思い浮かべた。
(みんな、好き勝手やっている。己の欲望に正直にやっている)
俺は、欲望の解消を実現できる境遇を羨ましく思う気持ちが、副住職を非難する気持ちを飲み込んでいくのを感じていた。
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