第25話 龍の耳
「ええっと…これは、また、リスナーの皆さんからお叱りのメールがたくさん届きそうな相談が来ています。上越市のアザミ嬢さん、女性からのメールです。みなさん、おはようございます。朝のラジオには相応しくないことを重々承知しているのですが、相談させてください。私は、アラサーの独身女子ですが、自分の略奪愛を止められなくて困っています。彼女や奥さんのいる男性を相手にしての略奪です。最初は、合コンとかに参加して、軽くお付き合いしたりするのですが、気に入った男性がいると、私からもモーションを掛けて深い仲になったりもします。一定期間お付き合いすると、男性の方から『今の妻と別れるから結婚してほしい』なんて言われたりします。すると、それまでの熱がサーっと冷めてしまって私の方から別れ話を持ち掛けることになります。そんなことが、今まで何回もあって、(これじゃあ、いかんな)と思っているのですが、なかなかやめれません。私は、もちろん、結婚を希望しています。どうすればよいか教えてください。とのことです。さあて、みなさん、どうします~?もう、ほんっとに、ダメダメですよね~何を言っているんですか!アザミ嬢さん!ふざけたことに悩んでいる暇があったらご先祖様のお墓掃除でもしなさい!って感じでしょうか。ヌハハハハ!でもね、リスナーの皆さん、このアザミ嬢さん、相談内容はふざけ切っていますが、おそらく、真剣に悩んでいると思うんです。『何を馬鹿なことをやっているのか!』とか『言語道断!』とか言うのは簡単ですが、そんな言葉では、ふざけたアザミ嬢さんを救うことはできないと思うのですよ。何が、どう、ふざけているのかをアザミ嬢さんがよ~くわかるように教えてほしいのです。そうですね~ わたしだったら… きっと、アザミ嬢さんは男性を本気で好きになったことがないかもしれないと思うんです。もしかして、本気の恋愛の末の失恋も未経験かもしれません。もしくは、逆に、過去に大きな失恋を経験したせいで本気の恋愛に踏み込めないのかもしれません。そんなことから、今居る奥さんや彼女よりも自分のことを好きになってくれればそれで『自分が勝った!』思って満足していらっしゃるかもしれません。『旦那に裏切られた妻の気持ちをわからないの?』とか『子どもがどう思うかわかってるの?』なんていう正攻法じゃ、おそらく、アザミ嬢さんには伝わらないんじゃないかって。だからね、こうなれば、略奪愛を止めようとするんじゃなくて、自分が本気の恋愛や失恋と出会うまで、とことん合コンして、どんどん男性とお付き合いすればいいんじゃないかって思うんですけどね~ え?それだめですか?ヌハハハハハ!是非、皆さんからの良きアドバイスをモーニングナビゲートまで送ってください。メールアドレスは、いつものnavi@…」
「じびずざん、だにを、にやにや、じでるんでずが?」
俺は、車のカーステを指差してから、左手でパーを作って胸の前で上下させた。
「あ“、だじぼが、だどじいんでずね”」
助手席の阿久津君は、右手の人差し指をカーステに差しながらそう言った。
俺は、阿久津君の方を向いて、笑顔を交えて大げさに頷いてから、右手の人差し指を口元に当てて「シー」の形を作ってから前に出して、小指だけを立てた。
「だじぼで、はだじでいる、ぼんだが、おぼじどいんでずね“」
俺は、車の進行方向を真っすぐに見ながら、大げさに頭を頷かせた。
阿久津君は、聾学校の高等部を去年卒業してうちの造園会社に就職した。聴力は、左耳が全くなく、右耳は高い音がかすかにわかるようだった。会社の社長は、阿久津君以外にも、障害者雇用で高機能自閉症の人を一人と、知的障害の人を一人を雇っている。いずれも、入社してまだ年数が浅いが、よく働いてくれている。今日は、会社がある市内の旅館の庭の
ラジオの音声が聞こえていない阿久津君には申し訳ないけれど、俺は、相談メールに対するコンドウマリコの返答を反芻していた。いかにも、彼女らしい、誰も言わないような意外な返答だった。普段、この番組を聞いていると、不倫や横恋慕を良しとしていないコメントを彼女はしているのでなおのこと意外だった。しかし、案外、『とことんやりなさい』というのは的を得ているんじゃないかと俺は思った。相談者がやっていることは、確かに、ハチャメチャでろくでもない。もしかして、多くの男に惚れられていること自体を楽しんでいるようにも伺える。そんな人に、果たして、もっともらしい理屈や説教が効くものだろうか。このあと、しばらくしてからリスナーからのメールが読まれるのだろうが、そこまではとても聞くことはできない。どんなアドバイスがリスナーから寄せられ、コンドウマリコがそれに対してどんなコメントをするのか興味があるがしょうがない。
(俺の性的倒錯を相談したらコンドウマリコはどんなコメントをするだろう)と、ちらっと思ったが、さすがに、朝のラジオでは読まれることはないだろう、と思い直して、赤信号の交差点に車を停車させた。
旅館は、平屋建ての純和風の趣のある建物だ。建物の規模からいっても、そんなに多くの宿泊者を取らずに宿泊費の単価を高く設定しているタイプのいわゆる高級旅館だ。旅館の入口の庭や、露天風呂周りの庭の風情を見てもそれはよくわかる。
「ぼばようございばず!ぼうじゅえんでず!」
旅館の勝手口で阿久津君は声を張り上げて挨拶した。
しばらくすると、上半身を少し左に傾けて怪訝そうな表情を浮かべながら仲居さん風の女性が廊下を歩いてきた。しかし、俺ら二人の作業服を確認して合点がいったようで「おはようございます。造園会社の方ですか?」と尋ねた。
「はい。豊樹園の者ですが、お庭の剪定に参りました」
「はい、伺っております。そうしましたら、まず、露天風呂周りのお庭からお願いできますでしょうか。10時がチェックアウトになっておりまして、まだ、お客様がいらっしゃる時間なのですが、露天風呂の方は大丈夫ですので」と仲居さん風の女が言った。
「はい。わかりました。今、車から道具を持ってきますが、外から露天風呂へ回っていけますか?」
「はい。ご案内いたします」
「よし、阿久津君、車から道具を出すよ」と俺は身振り手振りを付けながら言った。
「ばい!じびずざん」
俺たちのこのやりとりを見て、仲居さん風の女も阿久津君のことを理解したようで、最初の怪訝な表情を笑顔に変えて阿久津君の方を見ていた。
阿久津君が入社したての頃に、阿久津君から聞いたことをこういうシチュエーションの時にいつも思い出す。
『聾』の字は、龍の耳と書く。想像上の龍にも確かに耳はあるが、龍の体の大きさに見合わない小さな耳であるのは、ほとんど聞こえていないからだという。その代わりに、
また、かの古代ギリシアの哲学者アリストレスは、聾唖者のことを『神の失敗作』と呼んだのだそうだ。どちらかというと、『聾』の方ではなく、しゃべれない『唖』の方を重要視したようだ。
だから、どんなにたどたどしかろうと、幼児期から長年に渡って苦労して口話を手に入れた阿久津君は、アリストレスに勝ったのだ。
俺の性的倒錯も、間違いなく『神の失敗作』のひとつだ。だけれども、それがいかに差別的であったとしても有名な哲学者から評されることもなく、ろうあ連盟みたいな守ってくれる組織もなく、仲居さん風の女から温かい微笑をもらうこともありえない失敗作なのである。
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