第03話 黒糖パンと味噌汁と麦茶
「清水さ~ん、味噌汁とお茶どうぞ~」
腕時計を見ると、もう、12時を10分くらい過ぎていた。
「ありがとうございまーす!今、あがりまーす」
俺を呼んだのは、この寺の住職の奥さんだった。歳は、ちょうど、俺のお袋くらいじゃないかと思う。認知症ですっかり呆けてしまって、最近は、俺の顔を見ると「ねえ、おとうさん」と呼ぶようになったお袋とは違って、ここの奥さんはしっかりしているし、そして、明るく、親切な人だ。
作業着に付いた埃を手で掃い、長靴を脱いで、本堂の正面の扉を開けて中に入った。正面の本尊像に軽く一礼してから、向かって右側の続きの座敷の間に入った。俺は、特に、信仰している宗教はないけれど、この寺の本尊像のお顔を見ると、なんだか“俺のことを何でも知っている”みたいに思えてくるものだから、いつからか、一礼をするようになった。
また、それだけの後ろめたさのようなものを俺自身がもっているから、というのも間違いないところである。
「今日も、飽きずに暑いわねー。このポットに麦茶を冷やしておいたから飲んでくださいね」
「ありがとうございます。いつもすみません」
俺は、奥さんにお礼を言いながらデイバッグから昨日買っておいた黒糖パンを出した。
「あら、今日もパンなのね。エノキダケと葱の味噌汁作ったんだけど、アイスコーヒーでも淹れてきましょうか」
そう言いながら奥さんは腰を浮かし掛けた。
「いいんです、いいんです。エノキダケは大好物だし、さっぱりした冷たい麦茶が飲みたいです」
俺はそう答えて奥さんの動きを制した。
「あら、そう?いいのよ、遠慮しなくても。いつでも言ってちょうだいね」
「はい。こちらこそ、奥様にはいつもよくしてもらって、ありがとうございます。では、いただきます」
「どうぞ、ごゆっくり。食べたら、ごろんと横になってもらっていいですからね」
「はい、ありがとうございます。遠慮なくそうさせてもらいます」
奥さんは、少し膝の痛みを気にしながら立ち上がり、
俺たち庭師の休憩時間は、10時と12時と15時の3回だ。10時と15時は30分間、お昼は1時間の休憩である。真夏のこの時期は、この本堂のようなエアコンがない場所でも、室内に吹き込む風だけで十分に涼がとれる。
俺は、黒糖パンをかじりながら冷たい麦茶を喉を鳴らして飲んだ。
「そんな量で足りるの?」
テーブルの上に置いたパンを見つめながら心配そうに奥さんが聞いてきたのが3日前だった。
「ええ、最近、ちょっと太りすぎでして。でも、夏は、家に帰ってからビールを美味しく飲みたいもんですから、せめて、昼飯は減らしているんです」
「あら、まあ、そんな太っているようには見えないけど…」
そう言いながら奥さんは俺の腹回りを注視した。
「いいえ、いいえ、奥様にはここでお見せするわけにはいきませんが、結構キテるんですよ」と俺は腹をさすりながら言った。
「そうなのー。でも、味噌汁は毎日お出ししますからいただいてくださいね。夏場は塩分を取ったほうがいいから」
奥さんが出してくれる味噌汁は毎日具材が違う味噌汁で、しかも、どれも旨かった。おそらく、お袋の味噌汁の次に旨かった。奥さんは自家製の味噌を使っていると言っていた。
今のお袋は、味噌汁どころか、麦茶を沸かすこともできないだろう。
気が付くと、目の前に男の子が立っていた。
「どうしたんだい?」
「ばあばが、みそしるのおかわりどうぞって」と男の子は言った。
「ありがとう。でも、今日はいいかな。おじさん、お腹いっぱいだから」
それでも、なおも男の子は立ち尽くしたままだった。
「ユイトくん、幼稚園、夏休みで、楽しいかい?」と俺は話題を変えて尋ねてみた。
「ううん、たのしくない」
ユイトは、本当につまらないことを表現するかのように、下の畳を見ながら右足を左右に動かした。
「どうしてだい?」
「だって、うちにいても、おとうさんも、おかあさんもおしごとでいないし…」
ユイトはそう言いながら表情を曇らせた。
「幼稚園のお友達は?」
「おともだちはいるよ」
「お友達と遊べばいいんじゃないの?」
「だって、おともだち、みんなとおくのおうちだし…」
ユイトは右足の動きを止めることなくさらに声のトーンを下げてそう言った。
「ユイト~、戻っておいで~。おじちゃんはお休みしてるんだから~」
遠くの方から奥さんの声がした。
「また、おはなししにきていい?」
ユイトが目線を下に向けたまま小さい声で聞いてきた。
「ああ、いいよ。いつでもおいで」
俺がそう答えると、「おじちゃんがいつでもはなしていいってさ~」と言いながらばたばたと廊下を走っていった。
素直そうで、頭も良さそうだけど、残念ながらユイトくんは俺の“趣味”ではなかった。
肌の色が浅黒く、坊主頭で、目も一重だったからだ。
俺の“趣味”は、色白で、髪がサラサラしていて、目がくっきり二重の男の子なのだ。
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