第14話 赤黒ペンの教頭

「清水君、久しぶりだね」


 一見してわかった。俺に脅されながら“垢夫”のいわれを白状したあの気の弱い男だった。


「僕は酒がぜんぜん飲めないんだよ」と言いながら俺の前に正座してウーロン茶がなみなみと入ったグラスを畳に置き、慣れない手つきで俺のグラスにビールを注いだ。

 聞いてみると、化粧品の卸しの仕事をしていて、いまだに独身ということだった。


「あなた、もしかして、“これ”なんじゃない?」


 左手の甲を右の頬に当てながら高井真理子は意味ありげに言った。


「ち、ちがうよ~僕はれっきとした正常な男だよ。今でも、お嫁さん募集中だよ」


 気の弱い男はそう言った。


(正常な男、か…)

 俺は頭の中で気の弱い男の言葉を反芻した。


「なあ、タカマリ、こいつをお婿さんにもらってやったら?」と俺が言うと、


「だめ、だめ、だめだよ。僕とは合わないよ。あっ、たぶん、たぶんだよ」


「なんでそうわかるんだよ」


「だって、だってさ、だってだよ、真理子さんは気が強いからさ、たぶん、たぶんだけど、気の弱い僕なんか物足りないと思うんだよ。たぶん、たぶんだよ」


 中学生当時とまったく変わらないその口調で話すその男を見ていると、結婚できないばかりか、30年後に会っても同じように話すんじゃないかとさえ俺は思った。


 次に俺たちの前に座ったのは、中学校の教頭をしているという男だった。その男は、班の係のポスターを書くときに赤と黒のペンを意図的に俺に手渡した男だった。


「これからは、日本もゼロトレを進めなくちゃいけないと思うんだよ」


 赤黒ペンの教頭はそう言った。42歳で教頭だから、よほど勉強熱心で頭がキレるか、学級担任が務まらなくて管理職を目指したかのどっちかだと俺は思った。


「そのゼロトレってな~に?」高井真理子はそう聞いた。


「略さないとゼロ・トレランス。トレランスは“寛容”っていう意味だから直訳すると“無寛容” “非寛容”って意味になる。あっ、ありがとう」


 俺が赤黒ペンの教頭にビールを注ぐと、舐めるように5mmくらい飲んで話を続けた。


「簡単に言うと、校則を細かく定めて、もしも、校則に違反したら停学や退学や転校をするってやり方なんだ。といっても、生徒を校則でがんじがらめにするんじゃなくて、生徒が“きちんと約束を守る”という責任をもってもらって規範意識を高めてもらうところにねらいがあるんだ。一人ひとりが規範意識を高めることで学校全体を立て直していくこのやり方はアメリカで1990年代から盛んに行われていて。多くの成功例が挙げられているんだ」


 ここまで話を聞いて、この男がこの若さで教頭になったのは、間違いなく後者の理由だろうと俺は思った。おそらく、学級担任として生徒との意思の疎通ができずに、生徒を教育する矢面の責任から逃れて勉強をして教頭になり、そして、流行りの管理教育をさらに勉強して校長にでもなるのだろう。70~80年代に校内暴力が吹き荒れた原因のひとつが細かい校則の遵守だったはずだ。それとこのゼロトランスがどう違うのか俺にはさっぱりわからなかった。ただ、生徒と対面する責任から逃れて偉くなった管理職の学校はどんな学校になるんだろう、と俺は思った。


「君は、なんで、あの時、俺に赤と黒のペンしか渡さなかったの?」と俺は教頭に聞かずに、


「俺は、教育業界の難しいことはよくわからないけど、世の中には3つにタイプがいると思うんだ。ひとつは、物事の大きな流れや展望がよくわからずに、その場その場でがむしゃらにがんばるタイプ。流れをよく読めてないから、がんばっても成功しないことが多いし、運がよければ成功するかもしれないタイプ。二つ目のタイプは、あれこれ直接首を突っ込まなくても頭がいいから物事の流れを読んで要領よく立ち振る舞えるタイプ。これは、ほとんどの場合、地位的にも経済的にも成功する確率が高いタイプ。三つ目は…」


「その両方ができるタイプ」高井真理子が横から口を挟んだ。


「そう。俺は間違いなくひとつ目のタイプだと思ってるんだけど、君は自分でどのタイプだと思う?」


 俺は、まだビールが1cmくらいしか空いていない教頭のグラスにビールを注ぎながらそう聞いた。


「ははは、面白いことを言うね。俺はどのタイプだろう。職業柄、3つ目のタイプになりたいとは思っているけど」


 苦笑いしながら空になっていた俺のグラスにビールを注いで「じゃ、また後ほど」と言いながら席を立った。



「あの人…」


 高井真理子がそう言い掛けたけど、俺が制した。


「言わなくてもいいよ。だし、人の印象なんて当てにならないもんさ。問題は、よくわからないうちにその人の印象を決め付けてしまって、それなりにこっちが行動を決めてしまうことさ。俺はその怖さを嫌というほど味わったからわかる」


「清水君…」


 高井真理子はまた何かを言い掛けたけれど、そのまま黙ってしまった。



 その後も、開業医の隣の薬局、保険外交員、道路公団、歯医者、産婦人科医、自転車屋の店主、肉屋の店主、床屋の店主…と、酔いが回った同窓生たちが次々に俺たちの席に座って酒を注いでは席を立って行った。

 俺も酔いが回ってから気が付いたのだが、誰一人として俺のことを「垢夫」と呼ぶことはなく、「ベム」とか「清水」とか呼んで話した。そして、小中学生時代の話をする者はまったくいなかったし、ましてや、当時、俺に嫌がらせをしたことを詫びる者なんていなかった。みんな今の仕事の話とか街や家族の話ばかりをする者ばかりだった。逆に、当時のことを詫びられても、どんな言葉を返せばいいのか俺もわからなかった。

 あともうひとつ気が付いたのは、俺や高井真理子のそばに集まるのは男連中ばかりで、女子は誰一人として来ていないことだった。

 

 俺が何回目かのビールを高井真理子に注ごうとしたときに、高井真理子がこう言った。


「ねえ、清水君。男ってやっぱりいいよね」


「ん?なんで?」


 俺は聞き返した。


「女子はさ、何年経っても女子なのよ。いろんなことを忘れずにいるし、流せないものなのよ」


 俺は話をうまく飲み込めずに箸を止めていた。


「わたし、中3のとき、女子のみんなからハブられたのよ」


 意外な言葉が高井真理子の口から飛び出した。

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