第36話 タカマリと礼

「あ、いや、その、たしかに、タカマリや礼君とは何度か会ったけど、ええっと、その、ヨシヒトとはどういう関係なんだろう?」


 俺はすっかり狼狽しながら、それでも振り絞るようにそう尋ねてみた。


「そうか。やっぱり、ベムは聞いてないんだな。真理子は俺の元のかみさんで、礼は息子だ」

 

 ヨシヒトは俺をまっすぐ見ながら、はっきりそう言った。


「なんと…それは、驚くしかない」


「そうか、すまんかったな、驚かせて」


「あ、いや…」


 次の言葉を探すも、俺にはそう返すのが精一杯で、ヨシヒトの続きの言葉を欲しがった。


「じゃあ、事故のことも、礼の目のことも知らないわけだな」


「う~ん… タカマリからは、車を運転して電信柱に正面衝突して、自分は片足を失って、礼君は頭蓋骨に内側から脳が激しく当たったせいで視神経が壊れたと聞いたけど…」


「そうか。それだけなのか?ベムが聞いたのは」


「ああ、そう… タカマリからそう聞いたし、俺もそれ以上突っ込んだことを聞かなかったんだ」


「そうか。まあ、手短に説明すれば確かにその通りではあるけれど。足りてないんだ」


「足りて、ない?」


「ああ。確かに、その車を運転していたのはかみさんだった。その夜は酷い降り方の雨でな。仕事関係の飲み会の帰りにかみさんが礼と一緒に車で迎えに来てくれたんだ。後部座席のチャイルドシートに礼は座っていたんだが、酔っ払ってた俺はチャイルドシートのベルトを外して礼を抱っこしたまま少し伸びた頬のひげを礼の顔にこすりつけて遊んでいたんだ。かみさんは、バックミラーで俺たちのことをチラチラ見ながらチャイルドシートに礼を座り直させるように何度も言ったそうだ。俺は酔っていてそれすら覚えていない。俺に頬ずりされてキャッキャと声を出して喜んでいた礼が、あまりに興奮して大きな声を出したときに、かみさんが反射的に後ろを振り向いて、その後に前を向き直ったときに、雨に打たれるのを嫌がるように顔を下に向けながら右側から走ってくる自転車に気が付いて、咄嗟にハンドルを左に切ったところ電信柱に正面衝突したんだよ。礼は俺の手から離れておそらくフロントガラスの方に飛ばされて頭を打って、真理子は左足を複雑骨折、元々、シートベルトをしていなかった俺は車外に投げ出されて、脊髄を痛めて半身不随になったってわけだ。つまりは、みんな俺のせいだったんだよ」


「そうだったんだ。なんか、こう、言葉もないよ」


「ああ。それまでずっとうまくやっていた俺たち家族は、一瞬のうちに不幸のどん底に突き落とされた。3人とも命は失わなかったけれど、3人ともハンデキャップを同時に持った。本来なら、家族で助け合いながら過ごしていかなきゃならないところなんだが、ドラマのように、感動的な展開には簡単にならないものだ。それは、一人一人の気持ちの問題だ。俺は、この三人の身の上に起こった不幸について俺自身を責めた。どんなに、前向きに、と思い直しても、気が付けば、俺は底なし沼に戻っていた。真理子は、本当は俺を責めたい気持ちもあったろうけど、その代わりに運転して事故を起こした自分を責めた。そして、礼は、礼は俺にも真理子にも一言も文句も不平も言わずに、気丈にも見えない目で頑張って生きようとしてな。俺と真理子は、そんなことをしている場合じゃないのをわかっていながら責めや怒りの持って行き先を見いだせないまま、結局、お互いを責め、同時に自分を責め続けた。仕事もできず、家庭生活でも補い合えず、どんどんと暗い深みの中を宛てもなくもがき泳いでいる感じだった。でな、別れて暮らすことを選んだんだ」


「そうだったんか。そんな出来事をもちろん、全部理解できはしないけど、ドラマのようになんでもリカバリーできるわけじゃないってのはわかるような気がするよ」


「ドラマだと、不幸にもハンデキャップを持ってしまうのは家族の中の大概、一人だけで、数に勝る健常者の家族が介護をして乗り切るもんだが、うちは三人が一気に、だったからな。自分自身のハンデさえ克服するのがやっとのところで、互いに助け合ったり気遣ったりする余裕が残念ながら持つことができなかった。自分の弱さをこれほど噛み締めたことはなかったよ」


 そう言うと、ヨシヒトは車椅子の足元にある小さなエコバッグみたいな手提げ袋に飲み終わった缶コーヒーを入れた。


「でもな、ベム。かろうじて、真理子からは礼の様子などを含めて連絡をもらっているんだ。祭り場でベムに偶然会ったこと、二人で同窓会に出席したこと、礼と一緒に自然科学館や鉄道資料館に行ったことなんかをね。あ、あと、お前の職場のことも。だから、今日、お前が此処に来ることもわかっていたことなんだ」


「そっか… じゃあ、あの時の、あの同窓会の時にヨシヒトが来てないことも、タカマリはあらかじめ知っていたんだな」


「ああ、そうだ。同じ町内同士、同級生同士の結婚だったから、他の同窓生もみんな俺たちのことを知っているけど、同時に、事故や離婚のことだって知っているわけで、そんなことからみんな気遣って俺たちのことを話題にはしなかったんだろう」


「そうだったか…」


 俺は、胸ポケットからピースを一本を抜いて火を点けた。


「なあ、ベム。お願いがあるんだ」


「ん?なんだ?」


「これからも、真理子と礼をよろしく頼む」


「よろしく、って。何をだい?」


「いや、これまで通り、時々でいいから、遊んでやってほしいんだ。お前、真理子の話によると、まだ結婚してないんだってな」


「まあ、そうなんだけどさ」


「いい人、いないのか?」


「まあ、この歳になるとなかなかな」


「そうか。まあ、お前の負担にならない程度でいいんだ。俺は、礼とは会えないし、仮に会えても、お前みたいにゴールボールとかで遊んであげられないからさ」


「まあ、いいんだけど。ヨシヒト、お前は確かに車椅子で不自由なんだろうけど、こうやって仕事もやれているわけだし、礼君の相手だって、できる範囲でやれるんじゃないか?って、ヨシヒト、お前、本当は礼君に会いたいんじゃ」


 と言いながらヨシヒトを見ると、彼は大粒の涙を腿の上にぽたぽたと落としていた。


「いやあ、俺では駄目なんだよ。俺では。頼む、ベム。時々でいいから会ってやってくれ」


 俺は、涙を拭くハンカチをズボンのポケットから出そうとしながら手こずっているヨシヒトに、今日、まだ使っていないハンカチをそっと差し出した。

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