第21話 弱視

 やがて、水が流れる音がして、身支度を終えた様子が伺えたので、俺はドアを静かに押し開けた。


「礼君、済んだかい?」


「うん」と便器の前で立ったまま、礼君が言った。


「よし。じゃあ、手を洗おう」


 俺は、礼君の右手を取って手洗い場まで連れて行った。


「此処のは、自分で栓を回して水を出すタイプみたいだけど、どこを回せばいいかわかるかい?」


「うん…ちょっと、まって」と礼君は、開いた両手を前に差し出して栓の位置を探した。


「ん?これかな?」


「そう、回せる?」


 礼君は、右手でゆっくり栓を回すと、蛇口から水が出る音がし始めた。


「そうそう、上手だね。ハンカチは持っているかい?」


「あ、」


 栓を逆に回して水を停めた礼君は、七分丈のズボンのポケットをまさぐって探した。


「あ、ない。わすれてきちゃった」


「そか。じゃあ、おじちゃんのハンカチを貸してあげるからこれで拭いて」


「うん。ありがとう」そう言って、礼君は、両手の水気をハンカチで丁寧に拭き取った。


「自分の家や慣れている場所だと、自分一人で全部できるのかい?」


「うん。だいたいできるんだけど、たまに、しっぱいのときもあるの。でも、おかあさんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも『しっぱいはきにするな』っていってる」


「うん、そうだね。失敗しながらの勉強だね。礼君は偉いな」


 俺の言葉には返答をしないで、礼君はハンカチを俺の方に差し出した。


「礼君、今日は、そのハンカチ、ポケットの中に入れておきな。また、トイレの時に使うかもしれないからさ」


「うん。ありがとう」



 俺と礼君は、タカマリと桃子が居る場所まで戻った。


「清水君、どうもありがとう。礼はちゃんと用を足せたかしら」とタカマリは言った。


「うん。上手にできたよ。大したものだ」


「いつもならね、私と一緒に女子トイレに行くんだけど、この子もだんだん大きくなっていくことを考えると、外出先でも一人でできるようになってほしいなって、ね」


「あゝ、そうだろうな」


「通い始めた盲学校の幼稚部でも、校外学習のときなんかでそういう体験もさせてもらっているの。此処の自然科学館もね、校外学習で来たことがあるの」


「そうなんだ。もう、盲学校に通ってるんだ」


「うん。盲とろうの子はやっぱりね、早めに入学させた方がいいって。先天性の子だと、聾の子なんて、診断が出てすぐ0歳から通い始めているみたいだわ。礼の場合は、後天性だし、5歳までの経験と記憶がわずかながら助けにはなっているんだけどね」


 5歳までの経験と記憶が、弱視になった後、どれくらいの助けになるのか、俺にはちょっと想像できなかった。俺なんて、たった今、弱視になったとして、これまでの42年間の経験がどれほど役に立つというのだろう。



「ね~ ももこ、あそびにいきた~い」


 椅子に座った足をブラブラさせながら桃子が言った。


「あ、ごめんね。そうだね。遊びに行こう。桃子ちゃん、また、礼の右手つないで歩いてくれる?」


「うん!」


「バッグは俺が持つよ」


 俺は、サンドイッチが無くなったタッパーと飲み物が入っていたボトルをバッグに入れて席を立った。



 自然科学館は、俺が小学生の時に遠足で来た記憶があるが、おそらく、展示物は当時とは様変わりしているんだろう。入口でもらったパンフレットを開いて見ても、そんな感じがした。

 タカマリは“校外学習で来たことがある”と言っていたが、弱視の礼君が楽しめそうな展示物が果たしてどんなものか想像できなかった。


「うわあ、なにこれ~」


 桃子が、妙にゆがんだ鏡に映った自分の姿を見てそう言った。鏡は数種類あって、長身に見えたり、逆に短身に見えたり、鏡に立つ位置を変えると宙に浮かんで見えるようなものもあった。


「みてみて~レイくん!へんなの~」


 無邪気に喜ぶ桃子だけど、当然、礼君にはその面白さはわからないはずだ。


「桃ちゃん、それ、礼君は…」と俺が言い掛けると「清水君、いいの。ちょっと待ってあげて」とタカマリが振り返って言った。


「ああ!これなんだろ?あきおじちゃん、なんてかいてあるの?」


「このハンドルをグルグル回してみよう。何色に見えるかな?って書いてあるよ」


「うん、わかった!じゃあ、まわすよ」


 桃子が円い盤に付いたハンドルを回すと、盤が回り始めた。盤には黒色と赤色の点が散りばめられていたが、盤が回ることで目の錯覚によって色が変わって見えるというものらしかった。


「うわあ!レイくん、なにいろにみえる~?」と言いながら振り返った桃子の笑顔が消えた。


「ごめん…レイくん…ももこ、ばかだね」


 ようやく気が付いた桃子は、礼君の側に行って手をつなぎ直した。


 俺も、そして、タカマリも、桃子に何か声を掛けなきゃという空気を感じたその時だった。


「ももちゃん、それ、あおいろでしょ?」と礼君が言った。


「え?なんで、レイくん、わかるの?」


「ぼくがね、まだ、めがみえてたときに、それ、まわしたことあるの。おぼえてる」


「レイくん…ごめんね…」


 桃子の目から涙があふれ出てきた。


「桃ちゃん、ごめんね~。いいのよ。礼だって付き合えるものあるから」とタカマリが嗚咽し始めた桃子の頭を撫でながらそう言った。


 しばらく、そうやって泣いた桃子だったが、ようやく落ち着くと「あきおじちゃん!レイくんもできるやつ、ちょっとさがして!」とパンフレットを見るように要求した。


「ふふふ、桃ちゃん元気になってよかった。じゃあ4人で探しに行こっか!」とタカマリが明るく言うと、「よ~し、ももこも、レイくんができるのみつけるぞ~」と泣きはらした顔を笑顔にして桃子が言った。

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