第16話 暗殺者、女帝と享受

「馳せ参じました、麗しの陛下我が君


 かつて万国博覧会で賑わった水晶宮はヴィクトリア女帝のお気に入りの場所だ。亡き夫アルバート公が手掛けた建築物は現在、改築、改装と繰り替えしながら、水晶宮の名に近づいてきている。

 夕焼けが、宮内の植物園の一室を照らした。内部は真っ赤に染まり、一つの人影を作る。


 暗殺の騎士、ジョン・フランシスは跪き、頭を垂れた。

 昔、己が狙った人物が、目の前に君臨している。視界の上から漆黒の喪服の裾が垂れているのが見えた。ジョンは俯きながら、血色の悪い顔に冷や汗を垂らす。


 若き日のヴィクトリア女帝の命を狙った代償は、流刑であった。本来ならば王族を殺そうとしたならば相当な刑の執行が妥当であったが、女帝の深き慈悲深さによりジョンは現在ロンドンにいる。ビフレフト鉱石を巡った争いに、彼の流刑地は巻き込まれた。


 ジョンは覚えている。当時大英帝国と呼ばれていた国は女帝とともに、ジョンたちを救ったのだ。

 敵国の軍隊に包囲され、いつ上陸するか分からないまま怯えていたある日の早朝、機械仕掛けの虹色の発光を断片的に灯した数隻の飛行する物体が現れた。機首に刺した国旗が風に凪ぎ、確かな存在感で人々を圧倒させた。


 見たこともないそれは、爆弾を落とし、そのあとに軍隊が降りてあっという間に敵国の軍隊を壊滅させた。この出来事があるまで、ジョンは助けられるとは思ってもみなかった。何故なら大英帝国は参戦したばかりの頃は負け続きだったのだ。


「よく来た、我が騎士イークウェス


 若い声がジョンの耳朶を震わせる。


「今回呼んだのはほかでもない。貴殿を呼ぶのは一つと決まっておる」

「……暗殺、でございましょうか」

「然り」


 ジョンの体に緊張が走る。

 大戦後、救われたジョンは女帝の指名を受けて女帝騎士ヴィクトリアン・イークウェス勲章を授与された。授与式は月のない、夜のことだった。


「対象は……大臣でしょうか、それとも──」


 女帝が動いた気配がした。ティーカップとソーサーの、愛撫する音が玲瓏に鳴る。


 水晶宮内のこの音質はビフレフト鉱石で稼働しており、自由自在にいついかなる時も自分好みの花を咲かせることができる。現在は季節にのっとって、品種改良に成功して献上された薔薇たちが納められて大事にされている。


「──ほう」


 女帝の感嘆のため息。


「この薔薇の紅茶もなかなかいいではないか、アブドゥル」

「陛下のお口にあったようで、ようございました」


 女帝の背後に控えるインドの騎士アブドゥル・カリームが微笑して女帝に仕える。朗らかな彼の褐色の笑顔は女帝のみならず、他の騎士さえも安堵させるものだ。バーティは決して認めようとしないが。


「……ああ、すまぬ。話を変えてしまったようだ」

「いえ、お気になさらず」

「では話を進めよう。切り裂きジャックが幾百年の時を経て、再び現れたようだ」

「──!」


 切り裂きジャックの名は今もこの国で知らないのは赤子のみである。知らない者などいない。

 ロンドンで起きた、凄惨な殺人事件。ヴィクトリア大帝国の汚点でもあり、闇そのものである。現在に残る切り裂きジャックの資料は警視庁ではなく、バッキンガム宮殿の奥深くの宝物庫にて、負の遺産、女帝の怒りとして保管されている。


 資料によると、この殺人鬼の毒牙にかかった娼婦たちは、公には五人とされているが、実際は十人を越えている。全身の血を抜かれ、切り裂かれた挙句、内臓を持ち去られた。内臓の持ち去りは、下腹部に異常なほどの執着を見せていた。

 怪文書も送られ、警察の上官が辞任にまで追いやられたあと、事件は突然終わった。

 ぱったりと殺人鬼の暴挙が止まった時は、それはもう皆怯えながらも安堵したものだ。


「被害者は女性でやはり、子宮が持ち去られていました。彼女たちは夜勤の事務員でした」

「今は表に出してはいないが、記者たちが嗅ぎつけるのは時間の問題であろう。そして警察は解決できまい。そこで、ジョン。貴殿の出番である」


 女帝が椅子から立ち上がる。漆黒のドレスが近づいた。夫への愛で喪に服していながらも、ジョンは女帝の美しさに感嘆するばかりだ。

 柔らかな手がジョンの肩を撫でる。


「私が望むのは、我が臣民の発展と安寧である」

「存じております」

「切り裂きジャックは学校に住み着いているようだ。優秀な諜報員が見つけた」

「学校に……」

「ジョン・フランシス卿、貴殿に切り裂きジャックの暗殺を命ずる。我が臣民をこれ以上失くすのは惜しい」

「必ずや──仰せのままに、陛下イエス・ユア・マジェスティ!」


 差し出された手をジョンは迷いもなしに掴み、その甲に唇を落とした。



 薔薇の温室に残った女帝はアブドゥルに薔薇の紅茶のおかわりを所望した。美しい赤い水面に浮かぶ、甘い花びらを行儀悪く突つく。冗談交じりにアブドゥルがいけませんよ、と言うと女帝は少女染みた笑みを返した。

 若く未だ覇気のある瞳は、憂いを帯びて温室の入り口へと移動する。


「やんちゃな子どもを持つ母親とは難儀なものだな、アブドゥルよ」

「は?」


 バーティ卿のことだろうか、と悩むインドの親友を女帝は顧みることもなく自嘲した。


「暴れたあとの始末をするのは、いつも母親だ」


──マーリンめ。


 女帝の愚痴は温室のなか、蔓薔薇の下に零されたが、アブドゥルは口を閉ざしてただ女帝に仕えるだけであった。

 薔薇に零した水を掬うほど、愚かではない。秘密はまだ薔薇に吸われ、実と成るまで花びらに隠されたままで良いのだから。

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