第4話 少年、瀕死と願望
寒いと思って、オスカー・ビスマルクは意識を取り戻した。
体が言うことをきかなくて、重くて、寒い。何か、体の上に乗っている。
どのくらい経ったのだろう。閉じていた瞼を開ける。辺りは真っ暗で、目が慣れるには少し時間がかかった。
ようやく見えた景色は、あの豪華の車両ビクトリア号とはかけ離れていた。今まで見てきた華やかさは見る影もない。
横倒しになった車両を瓦礫によって積まれた壁が囲み、光を遮断している。埃が舞って喉を苦しませた。アール・ヌーヴォー式のステンドグラスの窓は割れて散乱し、オスカーの体を容赦なく傷つけた。乗客たちの荷物まで散り、大怪我をした人々が泣いている気配がする。
「坊や、大丈夫?!」
オスカーに気づいた乗客らしき男女二人が近づいて、オスカーの上にあるものを退かしてくれた。どうやら降って来た建物の瓦礫だったようだ。凝った装飾がされてある。
助けて。
そう言おうとするとお腹の辺りが痛くて口に出せない。痛みに震えるオスカーを、乗客の女が抱き上げた。医者なのか、手首を掴み、慣れた様子で脈拍を測りはじめている。胸元には軍医の勲章がつけられていた。
そういえば、帝国はじめての女性医師が、ヴィクトリア女帝から
もしかすると彼女ではないだろうか。男と見紛うほど髪を短く切った女性はてきぱきとオスカーの状態を診断していった。
あなただって、怪我をしているのに……。せっかくの清楚なワンピースドレスがズタズタだ。
礼と謝罪をしようとしても、喉からはひゅー、ひゅー、といった風のような音ばかり。そしてやはり体中が痛い。
「誰かランプを!」
周囲の乗客たちは女の叫びに慌ててマッチと、蝋燭がないか漁った。力のある他の乗客たちは力を合わせて瓦礫をどかして酸素の入り口を探し当てた。
「ありました、マーガレット博士!」
「素晴らしい!」
青年、やはり怪我をしている──からマーガレット博士と呼ばれた女はマッチを受け取り、かき集められた蝋燭に火を灯した。それから自分の鞄を漁り、なかから様々なものを取り出した。包帯から薬品の瓶、メスもある。
「博士、まさか、ここで手術を?!」
青年がギョッと目を見開いて博士を見る。マーガレット博士は頷いて白い清潔な布を口元に当てる。
「今すぐこの坊やに刺さった硝子の破片を取り除く」
「し、しかし、こんな真っ暗で……」
「早くしないと破片はこの坊やの体の奥深くへ行く! この意味が分かるか!」
狼狽える青年にマーガレット博士は叱咤する。軍医の経験が豊富だと聞いていたが、そのせいか、彼女はそこら辺の貴婦人よりも強い女性の印象を与える。
「内臓を傷つけ、坊やは死ぬんだぞ!」
死ぬ。その宣告は静かに場を巡ってオスカーの耳に届いた。
瞼をゆっくり開閉しても、景色は変わらない。薄暗い、横に倒れた車両。灯されたヒビの入ったランプを掲げ、ここで命を救うべき行動をとるか迷いながらも見下ろす青年。迷うことなくオスカーを救うべきだと、硝子片を取り除こうとするマーガレット・アン・バックリー博士。周囲は固唾を呑み込んで祈りを捧げている。
胸の奥が冷えていく気がした。これは確実に、明確に、自分が死に近い場所にいるということが分かった。体の芯から隅々まで、水の波紋のごとく冷えていく。それに震えたくとも、青年に体を抑えられている。
オスカーの脳裏に、大切な人々が思い浮かんで泡に消えていく。
出張で遠い国にいる、つい昨日まで笑い合っていた父。相変わらずだらしなく、整理整頓が苦手で、借りた部屋は汚かった。浮気の心配は杞憂だった。
家で待っている、服飾店の針子をしている母。最近職場に導入された最新型のミシンに興奮して、自慢を飽きることなくオスカーに話した。まるで新しい恋を見つけた少女のようだった。
大家の老婦人。二匹の双子の猫を大事に育て、時にはお茶目に笑って美味しい紅茶とお菓子を作ってくれる。
安い価格で家庭教師として語学を教えてくれる姉のような人は、大家と一緒に暮らしている。親子ではないらしいが、とても仲良しだ。
同じフラットに住む可愛い少女。その少女の父親はとても優しくて頼りになる紳士な帝都市警。
姉のような人を変な目で見るゴシップ記者。いや、こいつは大切な人ではない。が、心配だ。
──ああ、嫌だ。
みっともないと笑われるぐらい大声で泣きたくなった。眼球の裏が熱い。
会いたくなった。
また、会いたい。
それから──。
やりたいことが増えていく。その度に体は冷たく、苦しみが増す。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、厭だ、イヤだ、いやだ。心臓の音が、オスカーの願いとは裏腹に速度を無くしていく。
「坊や、しっかり! 全部取れたら、大丈夫だ!」
マーガレット博士が必死に少年の意識をつなぎ止めようとする。
まだだめだ。自分に言い聞かせる。口は動かないので、心のなかで。
生きたい。
いきたい。
イキタイ。
ふと、オスカーの視界に光り輝くものが見えた。
まるで太陽に輝く、あれは──歪な形をした天秤だ。
貴族が好んで着るような服に取り付けるスパンコールよりも綺麗だ。プラチナ色の歯車がいくつも噛み合いながらも天秤のうでを作り、その両端から輪の大きさがバラバラな鎖が左右のデザインが全く違う受け皿を吊るしている。支点となる柱には、ヴァイオリンやピアノ──音楽を彷彿とさせる装飾が施されており、実用的には見えない。
不思議なことに、この天秤を見れる人間は、周囲の反応からしてオスカーしかいないようだ。特に天秤の真下にいるマーガレット博士は全く気づいていない様子で、体内から異物を取り出すことに集中している。
天秤は後光を放ち、オスカーにあらゆるものを視せた。
悲鳴をあげそうになって呼吸が荒くなる。
マーガレット博士が慌ててオスカーの顔色を伺った。青白さが濃くなっている。
「坊や!」
ヘブンリーブルーの瞳に、マーガレット博士は映っていなかった。
視えている。きっと声が出せたなら。ありったけの力を込めて叫んでいただろう。
恐ろしいものが視えていた。
しわくちゃの顔をした小さい、あまりにもくすんだ肌色の悪魔が嗤って、オスカーの足下に立っている。日曜日によく母に連れられて行く教会に、悪魔を祓う救世主の絵画がある、それだ。絵の悪魔とそっくりだ。
悪魔は這いつくばってオスカーに乗って来た。マーガレット博士の手の上をそれに触れぬように、器用に乗り越えた。細い腕と足で、変に盛り上がった気持ちの悪い腹がオスカーの体を撫でた。天秤から漏れる後光を何度も気にしながら、オスカーを見ていた。
狙っているのだ。自分を。
本能が警鐘を鳴らす。逃げなくては、と。
振り払いたくても、助けを呼びたくてもできないもどかしい恐怖心が、完全に、オスカーを支配した。
何度もか細い必死な吐息が、音にならない声とともに消えた。
ひゅー、ひゅー。
死にたくない。
誰か。
悪魔はオスカーの胸のところまで来た。枯れ枝の手が、心臓のある胸に伸びる。
──助けて!
誰でも、誰でも良い!!
僕を助けて!
瞼が、体中が重くなった。非常にまずい。視界がぼやける。
「助けるとも、オスカー」
静かなバリトンボイスがして、オスカーの掠れかけた意識は再び戻った。
変わらないと思っていた景色が一つだけ、変化を加えていた。ついさっき、友となったエヴァン・ブライアンが立っていた。革手袋を外した両手には、漆黒のヴァイオリンとそれを弾くための細い弓がしっくりと収まっている。
弓は悪魔の首筋に当てられ、醜い生き物はただ硬直していた。心臓に伸ばされた手も、止まっている。
「誰の許しを得て、魂を喰らおうとする?」
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