第3話 博士、夜鳴鶯と警戒
マーガレット・アン・バックリーは病院内に個人の部屋を持っている。書類仕事ができる机と椅子、仮眠用の簡素なベッド、狭いシャワー室。裏口に面した窓際に立ち、救護車に乗せられる女性を悔しげに見つめる。
助けられなかった患者の一人だ。名前はアビゲイル・ビスマルク。夫はドイツ系譜の
約一週間ほど前に起こったビクトリア号爆撃事件でその息子が巻き込まれ、ようやく救えた。しかし、なんて皮肉だろうか。息子が救えたあとに、その母親が原因不明の昏睡状態で運ばれてくるだなんて。運命の悪戯。そんな言葉がよく似合う。
救護車に乗った少年が一瞬泣きそうに見えて、マーガレットは目を反らした。
救いたかった。
救えない、命がある。
軍医の経歴が物語る。紛争から起きたラグナロク世界大戦はどの戦争よりも酷かった。原形を留めない死体ばかりが仮設病院の庭を埋め尽くし、夜はなんとか生き延びた軍人たちがあまりの凄惨さにすすり泣く。時には参戦を表明したビクトリア女帝を恨みもしたが、あのまま沈黙を保っていたら、本土は蹂躙されていたかもしれない。ビフレフト鉱石を巡った侵略戦争に、苛烈さを極めて本土襲撃を目論む国家も現れ始めたからだ。
──あんな思いは嫌だ、と決意したばかりなのに。
女性医師の開業が合法となって、マーガレットの夢は実現した。それなのに、命というものは、ひどく残酷に現実を見せつける。
医師というのは。
「他の誰よりも死に囚われている」
もう一度、窓の外を見ると、救護車はすでに発車して姿はなかった。親戚の男だと名乗った男がともにいるが、大丈夫だろうか。不安になりながら机にある書類と向き合う。
原因不明の昏睡状態に陥った患者の家族たちは入院費を気にして、少年のように家に連れて帰ることを選んだ。富裕層の人間はそのまま入院させることを選択し、こちらを信頼してくれているが、もう希望など持っていないだろう。
羽ペンを手に取る。
今から記入する書類はヴィクトリア女帝へと送る嘆願書だ。原因不明の昏睡状態の原因究明のためのチームの編成、そして研究費の捻出の相談。あとはサインを入れるだけ。
その時だ。幾人の足音が近づいて、ドアの前で止まったのは。ペン立てに羽ペンを戻し、返事をすると、旧知の看護婦が入ってきた。五百年経っても凛々しい顔は変わっていない。笑うことすら忘れてしまったかのような固い顔。
「久しぶりだね、フローレンス卿。元気そうで何よりだ」
「マーガレット卿も、健康そうで嬉しいです。ですが、お疲れのよう」
それなりの富裕層出身のフローレンスが大股ででもどこか上品に、マーガレットの座る前へと近づいた。ナース服の裾が乱れることはない。
「何かあったのかい? 病院設置の相談ならアフガニスタンの電報で答えたはずだよ」
彼女とは昔からの病院衛生の改革について話し合ってきた仲である。女性であることを隠してきた際には、激しく横柄な態度を取ってしまったものだ。のちに和解して、友好は今も続いている。
「違います。女帝からあなたへの手紙をお持ちしました」
フローレンスが王室の手紙を差し出す。受け取って引き出しに眠っていたレターナイフで封を開ける。なかには仰々しい便箋が数枚。
読み進めていくうちにマーガレットは思い切り声を上げた。
「なんだと、これは!」
怒りに任せてテーブルに手紙を叩いた。
「吸血鬼騒動の身寄りのない患者たちを魔術協会に引き渡せだと?! いくら原因不明だからといって、こんな勝手なこと!」
ましてや医師の見解も聞くつもりもない、といった内容だ。協会に医師の参加は必要無し、と簡素に拒絶されている。フローレンスもその手紙を拾い、読み上げる。固い表情は変わりがないが、目が困惑の色を見せている。
「あいつら、モルモットにでもする気か?」
「原因不明だからこそ、魔術で治療する、つもりなのでしょう」
「簡単にいくわけが……いや、それにしても冷静だな、フローレンス卿」
思わず八つ当たりしてしまう。こんな自分は嫌だと何度も後悔しているというのに。
フローレンスは真摯にその八つ当たりを受け止めた。眉を潜めて首を振る。
「女帝の意思なれば、誰も口が出せません。気に入られているとはいえ。わたくしも、あなたも」
そう言われれば何も言えなくなった。女帝騎士は国民の憧れであるが、一番女帝に縛られる者でもある。女帝の意志に疑問を持ってはいけない。
「女帝はともかく、魔術協会は信じられない」
「わたくしも同意です」
「意見が久し振りにあったな」
冗談交じりに言えば、フローレンスの唇が微かに緩んだ。すぐに消えてしまうが。
「何より信用できないのは、あのマーリンです」
マーリン。最初の女帝騎士勲章を授与したとされる、魔術の騎士。国民が知るアーサー伝説に出てきた魔法使いの名前を関するその騎士を、マーガレットとフローレンスは一度も見たことがない。月に数度行われる騎士議会に現れたことはなく、女帝はその無礼な行動を黙認している。
「確かにね。私も信用していないよ。驚いたことにアブドゥル卿でさえも姿を見たことが無いって言うじゃないか」
「女帝の執事であるアブドゥル卿でさえも?」初耳だったらしくフローレンスが珍しく目を丸くする。
アブドゥル・カリームは大帝国植民地となったインド領の使者として女帝に謁見した青年である。彼を一目見て気に入った女帝が、執事にしたいがために女帝騎士勲章を授与した。これには当時、実子であるバーティ卿たちによる反発が起こったが、女帝は人種差別だと一喝して沈黙させた。実子を放置して使用人ごときを可愛がる母親に異議を唱えるのは当然ではないか、と当時はバーティ卿に二人は同情した。
女帝と皇太子の確執はともかく、騎士のなかで一番のお気に入りである──王宮だろうと外であろうと彼を連れまわすほどの溺愛ぶり──アブドゥル卿にもマーリンを会わせていないと聞くと更にマーリンの存在は色濃く疑問を残す。
性別不明。
容姿不明。
経歴学歴不明。
出自年齢不明。
ますます怪しい存在だ。そんな人物が所属する魔術協会に大事な患者を快く引き渡せるなどできやしない。
「何をお考えなのでしょうね」
「さあな。だが、意外と聞いてくれるところもある御方でもあるし、せめて合同で研究できないか掛け合ってみる。希望は薄いが」
「そうですね……わたくしも強く陛下に打診してみます」
「ありがとう、フローレンス卿」
「いいえ。全ては臣民のためです」
予想していた返事にマーガレットは思わず噴き出した。フローレンスが首を傾げながら、不機嫌に「何ですか、突然」と問う。肩を震わし、マーガレットは首を横に振った。
フローレンス・ナイチンゲールはこういう女性だ。どこまでも臣民の、患者のことを思う。その狂ったかのように綺麗な真っ直ぐさに惹かれる反面、羨ましいものだと感じる。悩んでも止まったりしないのだろう。いや、彼女は止まり方さえ投げ捨てたのかもしれない。
「君がフローレンス・ナイチンゲールで良かった」
はあ。
マーガレットの心中など知らぬフローレンスは軽く返事をして部屋を出て行った。外に待機していた
サインを待つだけの嘆願書をこれでもか、と言わんばかりに破り捨て新しい便箋を取り出す。
「患者を見捨てない」
せめて非道な扱いをされないか見なければならない。その義務を、マーガレットは医師としての資格がある。
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