第4話 死神、淑女と資格

 エヴァン・ブライアンは長椅子から立ち上がった。人の気配がしたからだ。足音からしてレイチェルだろう。数回のノックに返事をすれば、推測通りである。出来立てのシェパーズパイを手に、レイチェルが部屋に入る。リビングのテーブルに優しく置かれた。


 書類仕事に一区切りついたテーブルは、隅に並ぶ二つのタイプライターだけで綺麗に片付けられている。

 オスカーの姿が見えないことに気づいた彼女は、エヴァンに振り向いた。


「寝室で泣いている」


 問われる前にエヴァンは答えた。泣いていることを知ったレイチェルは目を丸めた。それから、エヴァンを非難がましく見つめる。


「どうしてオスカーくんを一人にしてるんですか」


 あまりにも真っ直ぐに睨まれ、エヴァンは視線を落とした。


「アーネストがそばにいる」

「犬に全部任せたんですね」


 声に冷たさが宿る。

 彼女が言いたいことは分かる。けれども、慰めに行くとなると足が動かなかった。覗き込んだレイチェルの顔が訝しげに歪んだ。


「──なんで、そんな泣きそうな顔してるの」


 ポツリと呟かれた言葉に唇が音を成して開く。


「私には資格がない」


 オスカーを慰める資格を、持っていない。


──何故?


 エヴァンの脳裏を凄惨な記憶が侵略する。


──エヴァン。ねえったら。


 あの子が呼んでいる。天使のような金髪を真っ直ぐ肩まで伸ばした美しい少年が。美しいエメラルドの瞳を三日月に細めて。


 それから続く。続く。東洋の死神が言っていた。走馬灯。その言葉が似合うぐらい、記憶が蘇ってくる。

 真っ赤に染まった、美しい少年が。


──自分を見て嗤っている。



「エヴァンさん!」


 引き摺り込まれていた闇からの一筋の光。照明の灯りに美しく輝くダイヤモンドリリーの赤毛の女性が、エヴァンの手を強く握っていた。

 レイチェルが怒った顔で見上げる。


「資格ってなんですか」


 その言葉に、掠れた声が出る。


「慰めるのに、資格っているのですか。それは、何? 大学に入学するよりも大変なのかしら?」


 違うそうじゃない。エヴァンは首を横に振る。まるで子どもの問答を引用している。

 赤の他人なのだ。親戚でもなんでもない。それに、他にも色々と理由はある。

 逃げないようにレイチェルがエヴァンの手を握っているので、強く振り払うことができない。何故だろう。彼女に強く態度を出す気には全くなれない。


「人それぞれでしょうけどね、エヴァンさん。あなた大事なことをお忘れです」


 レイチェルが動き出した。エヴァンの手を引き、寝室へと。まさか入るつもりか。身構える。扉の前に一度止まり、レイチェルが振り向く。


「オスカーくんはまだ子どもですよ。もう十三歳ですけど、私たちから見たら、まだまだ子どもで、大人たちが見てないと無茶や危険なことにのめり込んじゃう、壊れ物よりも儚い子どもです」

「だが──私は、慰めるなど、できない。やり方だって知らない」

「言葉なんてかけなくても、そばに誰かいるって大事です。支えてくれる人が、誰にだって必要です。今のオスカーくんは一人ですから」


 勿論あなただって。早口で認めると、レイチェルは容赦なく扉を開き、心の準備ができていないエヴァンを寝室に押し込めた。

 泣き腫らした顔のオスカーが驚いている。


「じゃあ私、サラダも持ってこないといけないので」


 扉が閉められ、気まずい雰囲気が流れる。アーネストが呆れた顔で扉の前に座った。なんとしても部屋から出さないつもりでいるようだ。


「オスカー」


 何も言わなくていいのだろうか。

 手探りといった様子でオスカーの隣に座る。


「すまない」


 突然の謝罪にオスカーは首を傾げる。


「君を、我々の都合に巻き込んでしまった……」

「……」


 無言になる。不穏な雰囲気にエヴァンは口籠った。


「だが、私はできるだけの手を打つ、つもり、いや、打つ……だから……すまない、私はどうも、下手なようだ」


 項垂れて視線を落とす。ゆっくりとその先がオスカーの母親へと向かった。どこにでもいる、平凡な主婦だ。


「エヴァン先生」


 オスカーに呼ばれて視線を少年に戻す。すると重みが腹に乗りかかった。オスカーがしがみついている。嗚咽混じりでやはり自分には慰めることなどできやしないのだ、と己の無力さを思い知るも、オスカーはエヴァンから離れようともしない。


「オスカー……?」

「いて、ください」


 まさかの言葉にエヴァンは固まった。レイチェルの先ほどの言葉を思い出し、嗚呼、と頷く。壊れ物を扱うように、頭を撫でる。


 失念していた。

 彼はまだ子どもで、頼れる大人なんてほんの一握りほどしかいないことを。

 分かっていたつもりでいたことを痛感する。



 夕日が沈みかけてオスカーのお腹が盛大に鳴り、夕食にしようとリビングに移動した。アーネストもついてくる。ちょうど起きてきたシャーロットが淡いグリーンのネグリジェ姿で部屋から出てきた。


「おはよ〜。お腹空いたあ」


 欠伸を噛み殺し、椅子に腰掛ける。

 シェパーズパイとサラダがテーブルに並んであった。配膳までされている。レイチェルが運んできてくれたのだろう。

 エヴァン宛のメモ用紙が一枚添えられている。


「……仕方ないな」


 フッと笑みが溢れる。


「なあに、見せてー」


 新しい玩具を見つけたかのような笑顔でシャーロットがメモ用紙を取ろうとする。見せたくないのでギリギリに届かない位置に掲げる。

 背が小さいことを気にしているシャーロットは地団駄を踏む。


「さいってー」

「人のプライバシーに入ってくるな」ポケットにメモ用紙を突っ込む。

「はいはい」


 シャーロットが不機嫌に座り直す。しかし、パイを一口食べてその表情は華やかな笑顔に変わった。黙っていたら可愛らしい少女だ。見た目に騙される人間は多い。


 その餌食に、オスカーもなってしまったようだ。顔を赤らめて見惚れている。これに関しては沈黙することにした。パイとサラダを平らげた彼女は紅茶を入れたあと、砂糖をティースプーン山盛り五杯投入する。


「やっぱり辛いものを食べた後は甘いものよね!」


 なんて残酷な光景だろうか。思わず口を抑える。

 これでオスカーの儚い恋も散っただろうか、と見れば、変わらずに蕩けた瞳を放っている。恋は盲目、といったところだろうか。そういえば、とふと思い出す。弟子はいっぱい食べる異性が好み、だと魂に刻まれていたような。

 

「何も言うまい」


 食後の紅茶を終えて食器をシンクへ。シャーロットがダメにしたキッチンはなんとか元どおりの輝きを取り戻している。食器洗いはエヴァンが担当し、オスカーをシャワーに行かせた。シャーロットはアンネとアーネストと婦人がよく読む雑誌を読んでいる。何が書いているかは分からないが、万人ウケするレシピ掲載に定評があると聞いた雑誌だったので嫌な予感しかしない。


 オスカーがシャワーを終え、エヴァンが次を貰う。服を脱ぎ捨て、洗濯機へズボンを入れようとして思い留まる。ポケットにはレイチェルから貰ったメモ用紙が入っていることを思い出して取り出す。

 綺麗な字で書いてあったのは。


『今度の買い出しに手伝ってくれないと怒ります』

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