入国前の大型蒸気機関車
第1話 死神、乗車と睡眠
エヴァン・ブライアンは飛行船が苦手だ。なので大陸を東西に横断する大型蒸気機関車に乗った。仕事の相棒は嬉々として飛行船に乗り込んでいたが、見送る時の心境は変な生き物を見ている気分だった。
「全く……空なんぞ飛んで楽しいものか」
浮遊感が気に喰わない。胃のなかに入れたものまで浮いてひっくり返るかのようで。
上質な革で作られた旅行鞄を座席の上にある棚に置き、心の相棒でもあるアーネスト──漆黒の大型犬──とともに客室の座席に座る。なかなか大きい犬の姿に通り過ぎる人々はギョッと目を丸くして足早に去っていく。頭を撫でれば、アーネストは目を細めて行儀良く大人しく伏せる。こんなにも可愛いのに。人間は見る目がない。
漆黒の革手袋をしたまま、目の下のくまを撫でる。ガラス窓に映るエヴァンの顔は、ひどいものだった。ぼさぼさの黒髪に、顔は死人のように真っ青。整えればそれなりの好感を得られる男性になるだろうに。
更に彼をだらしのない男にしているのは服装だ。フロックコートやウェストコートはどれも型落ちした流行遅れのもので、なかに着ているシャツはアイロンなどかけていないほどしわくしゃだった。
ポケットから黒革の手帖を開いた。手帖には事細かにこれからのスケジュールが記されている。大雑把に確認する。今日乗り込んだ大型蒸気機関車は二日で目的地である国に入る。そのあと飛行船に乗った変人と合流し、予約したホテルへ。そして仕事漬けの日々だ。
息を吐く暇もないノンストップな労働に、エヴァンは苛立った。上の者は、エヴァンたちが疲れていようと、休みたいと言おうと、次の仕事をするように、と冷酷に告げるのだ。もし、人間だったら気が狂って、体に異常を来すだろうが、人ならざる者たるエヴァンたちには関係のないことだから、当然かもしれない。
いったい、エヴァンたちがなんの種族であるか、厳密に言うならば。
死神である。
死神とは、魂の番人、管理者であり、死という事象を司る者。
死の事象は絶え間なく起こる。さっきだって、この車両に乗る前にも、川で溺死した少年たちの魂の回収と引き渡し、そして人生という書類作成と手続きをして来たのだ。明け暮れたおかげで、いつもより目の下のくまはひどい。シャツにアイロンをかける時間もなかった。本当はいつもは全くしないが。
「寝よう、アーネスト」
手帖を再びポケットへ突っ込み、エヴァンは座席に横になった。折りたたみ式のベッドを広げる気力はない。
エヴァンの目的地は、世界で最も進歩している国と言っても良い。魔術国家、女帝ヴィクトリアが五百年以上も統べる産業革命を大成した島国は、七色の鉱石ビフレフト鉱石で動く歯車仕掛けの機械たちが生活を支えている。植民地支配も当初は苛烈であったが、現在は軟化の態度を辿っている。
誰もが人類史で永続する理想郷だと言う──ヴィクトリア大帝国。
そして、終末の予兆を生みはじめた国でもあった。
ヴィクトリア大帝国に終末の影が落されたのは、突然だった。一人の死神が、とある魂の回収で一つの問題が見つかった。身勝手な魂の情報の改竄が行われていた。
人には、生命には、必ず天命というものが決められている。
いつ、どこで、なにに、どのように、死ぬのか。
それが、何者かの手によって変えられていた。これが出来るのは、死神、最高位の神、予期せぬ奇跡の三つのみ。そしてそれらが介入する場合、死神機関──死神たちを統括し、神と魔王、ワルキューレとは中立した立場である──に介入した書類が痕跡として保管される。しかし今回の改竄には、痕跡となる書類が一切なかった。一枚もだ。これは魂を管理する死神機関にとっては大問題である。
この改竄事件が一件では終わらなかった。帝国中の人間たちが予期せぬ改竄によって天命をねじ曲げられていたのである。これは、生命と死のバランスが崩れる異常危機である。
機関は調査及び解決を望み、エヴァンと相棒に託された。
きっと、改竄だけでは済まされないだろう。なんとなくだが、エヴァンは漠然とした確信を持っていた。
漆黒の革手袋を嵌めた手を組み、そっと目を閉じる。ヴィクトリア大帝国に着いたあとの日程の確認を数度頭のなかで繰り返したあと、夢へと入った。
鋼鉄の車両は、夜のなかを走っていく。
前へと進む振動と走る音がぼんやりと遠くなった。
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