第2話 死神、食事と邂逅

「エヴァン・ブライアン様」


 朝が来て、乗務員のノックで起こされた。


「おはようございます。朝食の用意ができました」


 エヴァンは食堂車に案内される。小太りの人の好い笑みを浮かべる乗務員は、だらしのない姿の乗客に何も言わず、歌うように食堂車のことを説明した。エヴァンはそれを半分だけ聞いている。


 食堂車は豪華だった。まるで貴族の邸宅のようだった。真紅をベースに、金の刺繍のさり気ない豪奢さにエヴァンは見惚れる。


 料理も素晴らしかった。久々の温かい朝食に思わず涙が出そうになり、目頭を押さえた。ついこの前まで、相棒が作った、料理とはなんなのか形容しがたいモノを食べて過ごしていたせいだ。死神だって美味しいものを食べたいし、グルメはいる。


 手袋を外さないエヴァンを他の乗客は眉をひそめていたが、誰一人、アーネストを前にしてエヴァンに注意する人間はいなかった。

 新しく食堂車にやって来た少年と目が合う。彼はアーネストに惹きつけられた様子でエヴァンの近くに小走りに駆け寄った。


「お兄さんの犬?」


 見た目からして十代前半の茶髪の少年は、エヴァンの返事を待たずしてオスカーと名乗った。


「この子はアーネストって名前だ」

「へえ、すっごく可愛い」


 こわごわとオスカーはアーネストに手を伸ばす。アーネストは大人しく落ち着いたスカーレットの瞳でオスカーを見上げていた。


「お兄さんの名前は?」


 オスカーに撫でられ、アーネストは目を細めて頭を小さな手のひらに擦り付ける。


「エヴァン・ブライアン。エヴァンと呼んでくれ、敬称はいらない」

「でも、年上には敬意を示さなきゃ。友達じゃないのに」


 オスカーの腰の低い気遣いに、エヴァンは小さく笑う。行儀や礼儀をしっかり正されて来たらしい。


「ではこうしよう、オスカー。今日から私と君は友人だ」


 そう言ってエヴァンはオスカーに自分が苦手な甘い甘いパイを差し出した。声を潜めて「友人のために食べてくれないか」と小さな悪事を提供する。オスカーは喜んでパイを受け取り、向かいの席に座った。これで食べ物を粗末にしないで済む。安堵していると、彼もエヴァンが手袋をしているままであることに気づいた。


「手袋は外さないとダメだよ、エヴァン」とパイを齧りながら注意する。視線はパイと手袋を交互に踊っていた。


「手袋? ああ──、これか」


 ここでようやくエヴァンは己が手袋をしたままであること、それで視線が集っていることに気づいた。ふと別のテーブルを見れば、気難しい顔の乗客と目が合って反らされる。なるほど。ボサボサの黒髪を掻く。寝癖のひどい頭は更に鳥の巣のようになってしまう。全く外見に気を遣わない青年の不気味さが増した。


 左手から一本一本丁寧に手袋を外し、右手へと移行する。その作業を、オスカーが静かに見つめていた。

 エヴァンは右手の手袋を取ろうとして、止めた。


「取らないの?」

「オスカーが腰を抜かすんじゃないかと思ってね」

「えっ?」


 何も分かっていない少年に、エヴァンはニヤリと笑って、今度こそ右手の手袋を外した。

 同時に、息を呑む声が食堂車に静かに溢れて消えた。

 手袋から現れたのは、肌色の、優しい感触を持つ生の皮膚ではなかった。シャンデリアの照明と外からの太陽の光で装飾品のスパンコールのように輝く、プラチナ色の手。


 見事な義手だった。

 繊細で生身の手のように自由自在に動ける高い技術を密集させている。


 エヴァンは義手の指を動かした。丁寧に美しく艶かしく。動くそれを、オスカーは口をあんぐりと開けている。パイを落したことにも気づいていない。幸いにも、パイの着地点は皿だった。


 それから、ね。


 エヴァンは義手で右目にかかった癖のある長い前髪を除けて、少年に見せた。右にあったのは、アメジスト色の左目とは全く違う動かない、ガーネット色の目だった。

 なんと、エヴァンは、慣れた手つきで、ガーネットの瞳を取り出した。


 手のひらで、それはコロコロと転がった。飴玉のように照明の光をきらきらと反射する。エヴァンの悪戯に満ちたアメジストの瞳はオスカーの反応を伺っている。少年は悲鳴も漏らさず、義眼を見つめている。

 小さいのど仏が上下し、オスカー少年は立ち上がって食堂車を走り去ってしまった。


 隣のアーネストがこちらを非難がましく見る。


 なんだよ。エヴァンは唇をすぼめた。揶揄いが過ぎただけじゃないか。

 はじめての友人に、ほんの少し、悪戯心がくすぐられただけ。


 義眼をあとで洗おうとハンカチーフに包み、給仕に調理前のオレンジを頼んだ。右目を空洞にさせた客に、給仕は恐怖に顔を引きつらせながらもオレンジを持って来てくれた。ご丁寧に皮は剥かれ、カットされている。受け取って、オレンジの乗った皿をアーネストに向ける。ツヤツヤと太陽色に輝くオレンジを、アーネストはうっとりと見つめた。スカーレットの瞳はだらしないほど蕩けている。


「食べていいぞ」


 エヴァンの一言を皮切りに──ジョークではない──アーネストはオレンジにがっついた。見た目とは裏腹に甘えたな声が出ている。大好物のオレンジを与えたのだから、機嫌は元通りだろう。エヴァンは期待を込めてアーネストの食後の反応を、ニコニコと微笑して見守った。


 食べ終えた彼のエヴァンに対する反応は、それでも非難に光っていたのだった。オレンジ作戦は失敗した。

 エヴァンは肩を落として客室に戻った。アーネストが険しい顔でついていく。

 戻ったあと、午前を義手の点検と義眼の洗浄作業に費やした。体内に入るのだから、煮沸消毒までした。


 そろそろ頃合いかな。熱湯のなかで煮えるガーネット色の瞳を持つ義眼をつついていると、オスカー少年が訪ねた。さっき逃げたはずでは、とアーネストと顔を見合わせるも、いったい何故来たのか、分からない。あんなショッキングな光景を見させたのに、話しかけてくることはなかなかの物好きだ。

 結局彼を客室に招き入れることにした。オスカーは怖がった様子で、しかしエヴァンに真っ直ぐ見つめて、近づいた。


「……さっきはごめんなさい、エヴァン」


 突然の謝罪に、思わず「ん?」と変な声が出た。


「食堂車で、僕、エヴァンから逃げちゃった……」


 青空色に輝く幼い瞳が水気を帯びる。


 ああ、これは。いけない。


 顔を覆いたい気分になった。死神であるのに、ああ神よ、私はなんと罪深い、などと言いそうになって止める。神など、簡単に人を救う存在ではないし。エヴァンにとって最高位の神は最も嫌いだ。その次は魔王。その次はワルキューレたち。その次は……いや、今は関係ない。今度にしよう。

 アーネストからの痛い視線を義手を翳すことで遮断し、オスカーに向き合った。


「謝るのは私だよ。君を試すようなことをしてしまった」


 謝罪してオスカーの涙を義手の方で拭ってやる。目の下に冷たい金属の感触に、小さい肩がびくりと震えたが、エヴァンは逃げることも、振り払うこともなかった。


「私の謝罪を受け入れてくれるかい?」

「勿論だよ、エヴァン! 僕の友達!」


 太陽の微笑をたたえてオスカーは力強く頷いた。

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