第18話 死神、画家と奔走

 ウォルター・リチャード・シッカート。エヴァンはこの人物を知っていた。

 彼が言った通り、ウォルターは画家である。彼の名前が有名になったのは、ラグナロク世界大戦後、勝利したとはいえ、多くの戦死者を出したことに変わりはなかった。


 哀愁を感じていた国民たちの心を、代弁するかのような落ち着きのある色彩で表現した絵を発表した。彼の絵に、いったいどれだけの人が心を癒されただろう。国民の画家とまで言われた彼は、印象派として美術界では有名である。


 病死したと聞いていたが、魔術師の工房にいるとは。

 死神になりたてだったエヴァンはよく事情を知らないが、魂が見つからなかったのだろう、と推測できた。


「ウォルター・リチャード・シッカート?」

「そうだとも。死んだあと、ここに閉じ込められてね。部屋を増やすために、描けって……あれ? エヴァン・ブライアン、か。君、昔の新聞に載らなかった?」


 エヴァンの言葉にウォルターは自信を取り戻したかのように頷く。そして探るような視線をエヴァンに向けた。


「……気のせいじゃないか」


 アメジストの瞳がウォルターから逃れる。


「そう、だろうか。これでも新聞は見ていたのだけど……いつだったかな、大英帝国が大戦に参加する前の新聞に、君を見た気が──」

「あなたはここで何を?」


 話を進めることが嫌になってエヴァンは話題をすり替えてウォルターに迫る。


「私、は。絵を描かせられていた。長い時間、ここにいる気がする。名前に、記憶に、自信がなくなりそうなぐらい。君に呼ばれてようやく自信がついた。ああ、そうさ、私はウォルター・リチャード・シッカートだ」


 さっきまで猫背だったウォルターの背中は、コルセットがされているのかと思うほどピンと綺麗に立つ。手から紙切れが落ちてゆっくりとエヴァンのもとにたどり着いた。走り書きにウォルターの名前と職業が記されている。自信がなくなって書いたのだろう。すぐに思い出せるものの一つとして。


「ところで君は何故ここに?」

「あなたと同じく、閉じ込められた。現在出口を探している」

「出口があるのかね?」

「あるはずです。入り口があるのなら、必ず」


 雨が終わるように。


 暗いこともきっと終わります。信じます、あなたを。


「──ぁ」


 一瞬、記憶の奥を少女が通り過ぎた気がした。赤く、流れる髪がふわりと風に浮いて。


「ブライアンさん?」


 ウォルターが不思議そうに覗く視線に、エヴァンは気づいて頭を横に振る。モーリスと同じく奪われた記憶が蘇ろうとしているのだろうか。

 エヴァンは己に起こりはじめている事象に戸惑いを隠せないでいた。落ち着こうとプラチナの指で唇をなぞる。


 何故、どうして、今。

 少し視線を彷徨わせ、エヴァンはウォルターを見る。


 彼を連れ去ったのは、工房内にある絵画を増やすためだろう。鳥籠が家とするならば、絵画はそれぞれの部屋なのだ。研究する時間を増やすために、ウォルターを代わりとして選び、ここで描くように命じたと見ていいだろう。

 ならば玄関の役割を担う絵画がある可能性が高い。魔術師がここに戻る前に、脱出しなければ。


「私は死神だ。あなたがここで閉じ込められているのなら、あなたを保護し、然るべき処理をしなくてはいけない」

「は?」突然の告白にウォルターはついていけない。

「ここから出るべきだ。行くぞ」

「お、おい。待ってくれ」


 ウォルターの腕を掴もうとした手は空を切る。彼が一歩下がったためだ。


「待ってくれ」


 もう一度懇願すると、彼は先程まで手掛けていたキャンバスを両腕に抱きあげる。


「これも持っていきたい。合間に書いててようやく出来上がったんだ、これが最後の作品だ」


 自身に対する思い入れは強いらしい。


「あとはサインを。きっと鍵になる」


 ウォルターは強い確信を持って更に強く抱きしめた。準備は万端だ、と頷いた彼の手を引いて後ろを振り向く。

 何故今まで気づかなかったのだろうか。額縁の形をしたゲートがあった。鳥籠の様子が見える。エヴァンは全神経を集中させて警戒をしながら額縁のなかを潜る。後ろで躊躇するのを感じたが、問答無用で手を引いた。二人は階段へと降りる。


「ここは……」


 見たことのない幻想的な建築内装に、ウォルターの瞳は輝きを増した。画家としての執念と好奇心が入り混じっている。ここに真っ白なキャンバスかスケッチ用の紙があれば、エヴァンのことなど忘れて描きはじめていたことだろう。画家といのは難儀な生き物である。


「浮かんでいるのは全部、あなたが?」

「……いや、この裸婦とかは違う。塗り方は似せてるけど、明らかに他人が描いたものだ、わかるだろう?」


 そう言われてしまうと何も言えなくなってしまう。唇だけ笑って返して階段を登る。絵についてはよく分からないので、画家の言う違いには首を捻るばかりだ。


 絵画のなかにはただの装飾としての絵画がちらほらとあり、触れても何も起きない。それらは全部額縁が木製であると気づいたので木製の額縁の絵画は調べないことになった。


 裸婦画の多くは哀れな女性たちの殺害の記録であり、ウォルターの作品ではなかった。


「この人たちはいったいなんなんだ? なんのために、こんなことを?」


 残酷な絵を見てしまったために顔を真っ青にさせたウォルター。質問に答えるべきか否か、迷いながらも上へ上がる。魔術師、魔法使いの行動原理は不死の克服であり、世界の均衡を崩すこと。果たしてこれをウォルターが理解できるか。


 だいぶ階段を上がった。手がかりの絵画は絞り込めてきたことだろう。

 木製の額縁の絵をどかし、エヴァンは見えた絵画に手を伸ばした。雨のロンドンの街並みが金の額縁に収められている。


「あ、め……」


 かさかさの唇が呻く。額縁をそっとつかみ、寄せるとロンドンの道の中央に人影が倒れているのが見えた。


「どうかしたのかい、ブライアンさん?」


 ウォルターの呼びかけに答えず、エヴァンは釘付けになって今度こそ風景画に触れた。

 視界が真っ白になって瞼を閉じる。頰に雨の打撃が落ちた。ロンドンの街並みに、エヴァンは立っていた。空を見上げれば真っ暗な空から雨が降り注いでいる。


 見覚えのある風景に心臓は高鳴る。

 どくん、どくん、どくん。


 空を見上げていた顔をゆっくりと下ろした。街灯が照らしているのでよく見える。


 最初に見えたのは、濡れることも厭わずに座り込む、自分自身。右腕は肩の付け根部分から切り落とされ、血の涎が雨とともに地面を濡らした。


「あ、ああ、ああああああ」


 項垂れる自分が、嘆きながら前へと緩慢に歩む。その先にあったのは、心臓ごと抉られた黒人の男性だった。


「モーリス!」


 唯一無事な左手でその頰を撫で、肩を揺らすが何も意味もない。心臓ごと、魂を奪われたただの抜け殻に過ぎないそれを、エヴァンは嘆きに満ちて言葉にならぬ咆哮を漏らす。


「何故、こんなことを!」


 モーリスははじめての弟子であり、かけがえのない親友だった。

 それを、自身が生前大切にしていた義弟の手によって奪われた。


 朦朧としながら右腕のない自分は相手に吠える。

 街灯の当たらないぼんやりとした暗闇のなか、きらめく心臓と魂を手に、その悪魔は、天使のように美しく微笑んだ。美しいエメラルドの瞳が三日月に歪んだのを、過去のエヴァンも今のエヴァンも見逃しはしなかった。

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