第17話 死神、絵画と迷走

 エヴァン・ブライアンは檻のなかで目覚めた。ひんやりとした濁りのある灰色の床に、仰向けになっていた。


 体を起こし、状況を確認する。檻というには、語弊がある。大きな鳥籠だ。黄金の鳥籠は広く、天井となるドームの屋根はあまりにも高い。ポツンとエヴァンだけがいるだけかと思ったが、天秤を再び取り出し、光源を放てば、鳥籠のなかには絵画が浮いている。カーテンのように張り詰めたキャンバスがゆらゆらと、不規則に。


 ここがエヴァンを強襲した魔術師の工房であることは容易に理解できた。おそらく学校に工房へいく道を繋げているのだろう。学校関係者か、もしくは関係者が協力者かもしれない。


「随分と凝っているな……」


 一枚、目線の高さに浮いている絵を見る。油絵の匂いがする。

 それなりの大きさのキャンバスだ。綿密な風景が描写されている。薔薇園で遊ぶ蝶たちの優美さには絵に疎いエヴァンでさえも目を見張るものである。中央で少女が日傘を差して一人佇んでいる。こちらを見て空いている右手を振って微笑みを浮かべていた。


 義手で少女を優しくなぞる。見覚えのある少女だ。


「シャーロット? ──違うな。あいつはこんな綺麗な笑い方はしない」


 真っ赤な髪が靡かせ、少女は何故こちらを見ているのだろう。ピーコックグリーンの瞳をアメジストで見つめるも、エヴァンの脳裏に虚無さが響く。


 悩んでも仕方ないことだ。諦めてエヴァンは鳥籠の出口を探した。目を凝らし、絵画をどかし、周囲を一周する。


「……そう簡単にはいかないか」


 扉となるようなものはどこにもなかった。魔術師の工房というのは、死神機関の本部よりも複雑になっている。出入り口は定期的に場所が変わるものもあれば、分かりにくいところにある。

 手掛かりというのは、浮かぶ絵画しかあるまい。


「悪趣味だな」


 絵画のほとんどは裸婦画だった。ただの裸婦画ではない、首や胸、腹を切り裂かれて、絶命している。

 死神故に、こういった死体を百を超えるほど見てきたが、それを絵に止めようとする作者の気持ちを、エヴァンは全く理解できない。


 まじまじと見る気にもなれないが、脱出するためには、顔を近づけ、ありとあらゆる可能性を探らねばなるまい。

 息を一つ吐いてエヴァンは絵画の一つに触れる。トラップがないとは言い切れないので慎重に触れた。


 目眩。

 暗転。

 回転。

 再び目眩。


 船酔いよりも気持ちが悪い。脳みそが教会の鐘のなかで響いているかのような揺れを起こしている。胃のなかの全てを吐きそうになり、口を押さえる。

 死の異臭が鼻を擽った。血と甘い腐った香り。

 ようやく目眩が収まり、慣れてきた視界をゆっくりと巡らせる。


 景色は変わっていた。


 浮遊する絵画たちは消え、古くみすぼらしい、家が密集し、道路はあまり綺麗とは言い難い路地裏にエヴァンは立っていた。

 そして目の前には娼婦らしき女性が、己の春を売るために男性を捜していた。


「……」


 女性は目の前のエヴァンに気づかないのか声をかける様子はない。恐る恐るエヴァンは彼女の肩に触れようと試みた。が、義手の手は空を切る。


「やあね、最近あんなことがあったから男もいないじゃないの。ホワイトチャペルの殺人鬼なんて、きっと男として自信がない奴の仕業よ」


 女性はため息をついて一休み、として建物壁に寄りかかった。ストールが肩からずり落ちたのを正す。


「少し冷えるわね」


 呑気に独り言を呟く彼女に対し、エヴァンは鳥肌の立った左腕をさすりながら後ずさる。

 ホワイトチャペルの殺人鬼など、知らない者などいない。英国人ヴィクトリアンだけではなく、死神機関内でも有名だ。


 犯人は、人間ではない。


 すん、と女性の細い鼻が甘い匂いを嗅ぎ取った。

 何かしら。

 興味津々で匂いの出所を探ろうと立ち上がる彼女の口に、長い爪の手が覆いかぶさる。


「っ──!!」

「お、嬢サン、いたァ」


 スモッグが濃くなる。

 娼婦は恐怖に体を強張らせながらも必死に抵抗した。叫ぼうとした。しかし、力の差に勝てず、脱力する。

 唖然とするエヴァンの後ろから足跡が近づき、彼をすり抜ける。


「大尉、すぐ殺してはいけません」


 木炭とケント紙を手にした男が吸血鬼に話しかける。フード付きの外套を着た男の声は、エヴァンを工房に落とした魔術師のものだった。深く被られた顔はよく見えないが、健康そうではないことは明確に理解できた。

 ケント紙に木炭の細い先端が滑る。紙を擦る音は静かに響き、異様な雰囲気をもたらした。

 しばらくして。


「よし、外部のスケッチは済みました。大尉、腹を裂いて中身を見ましょう」


 次に何が行われるのか、想像ができた。エヴァンは思わず目をそらす。

 再び命の危険を悟った娼婦が暴れ出すが、ねじ伏せられ、結局はくぐもった断末魔が虚しく吸血鬼の手のひらで抑えられた。肉の滑った音、血を啜る音が響き、エヴァンの耳朶を嬲った。


「ありましたね、大尉。ご覧ください──ああ……まだ、食事中でしたね」


 視界の隅で魔術師は瓶に一つの肉の塊を入れた。

 新鮮な赤を纏ったそれを、恍惚げに見つめている。


「やはり何度見ても素晴らしい。これが命のはじまりを象徴するもの……魂を宿す宮、女だけが持つもの」


 子宮。


 怒りがエヴァンの身体中を巡った。魔術師、魔法使いの望みは不死の克服。そのために何十人、何百人、何千人もの人間、動物が実験台にされたことか。それに対しての罪悪感や倫理観はすでに麻痺している。


「これでまた私の実験に一歩道が開かれた! 魂の研究、吸血鬼の研究も、これでまた一つ。大尉、必ずや」


 未だ娼婦の血を啜る吸血鬼を魔法使いは満足げに見つめて跪く。


「奥さまとその御子を、蘇生させてみせましょう」


 目眩が再びエヴァンの視界を混濁させた。治るまで目を閉じて待つ。ゆっくりと瞼を開けるとさっきまでいた鳥籠のなかにいた。

 絵画は残酷な姿のままだ。


 刷り込まれ、練り込まれた実験の記録。


「なるほど、確かに工房ではあるな……」


 趣味の悪い、記録媒体だ。

 ホワイトチャペルの殺人鬼が人間の手にも、死神機関の手にも捕まえられなかったのは、あの魔術師が匿っていたからとは、思いもしなかった。


 吸血鬼とは吸血という行為を最優先するモノだからだ。魔法使い、魔術師とともに行動することなど、誰が想像できただろうか。大尉、とあの魔術師は呼んでいた。エヴァンは魔術師が唇から大尉と呼ぶ声に、敬愛が含まれていることを聞き逃してはいない。


 大尉というのは、生前は軍人であったのだろう。鉄槌卿を退けたとも聞いているので、それなりの実力者だ。


「シャーロットは無事か……?」


 鉄槌卿に属する彼女でも、魂を滅ぼすことに抵抗のある死神だ。遭遇するとして、推測通りならば、シャーロットはあの吸血鬼に簡単に負けてしまうだろう。真っ赤な髪が血液に汚されることを想像して首を横に振る。

 死神はそう簡単に滅んだりしない。しかし、警戒をしておくべきだろう。

 そして何より。


「オスカーは……」


 そう呟けば、不安は広がる。少年がどのように動くか分からない。まだ人間で、未熟で、何しろエヴァンはすでに弟子を一人、殺されている。

 モーリス・ガードナー。

 はじめての弟子であり、頼もしい親友であった。黒人ゆえに世界の差別とは、なくすためには、と日々苦悩していた彼を牧師から死神の弟子へと招いたのは、紛れもなくエヴァンである。


 そして彼が魂ごと奪われ、人生を閉じたのも、エヴァンの責任でもあった。


 モーリスの二の舞は絶対に阻止せねばならない。エヴァンは一刻も早く工房からの脱出をしなければ、と決意を新たにする。

 オスカーがもし、死んでしまったら。エヴァンは身震いした。


 漆黒の放出機を取り出し、奏でるは天上の調べ。

 螺旋階段が積み上げられる。高く高く、浮遊する絵画を逃さぬよう手に取れるように。一通り完成した階段を一歩踏み出し、次の絵画に手を伸ばす。

 描かれていたのは薄暗い部屋のなかだった。どこかのフラットの一室のようだ。ただ薄暗いそれを撫でる。


 エヴァンの視界が回転する。


 自然と閉じていた瞼を開ければ、暗い部屋のなかに立たされていた。見回すと男が一人、一心不乱にキャンバスと向かい合って描いている。


「……描かなければ、描かなければいけない……わたし、が、わたし、で、あるため、に」


 溢れた声は空虚ではなかった。エヴァンは違和感を覚えて彼の肩に手を伸ばす。義手の指先が、肩に、確かな触感を持って

 瞬間、男が小さく悲鳴をあげて振り向く。存在にようやく気付いたのか、男は震えながらエヴァンを見つめた。キャンバスを傷つけさせまいと己を盾にしていながらも、瞳は探るように怯えていた。


「……あなたは、誰?」

「エヴァン・ブライアン。あなたは?」


 敵意はない、とエヴァンは両手を上げて一歩下がる。


「わたしは、ウォルター・リチャード・シッカート。画家をしていた」


 ウォルターは悲しげに自分の名前を告げた。右手にある紙切れを見つめながら。

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