命に囚われている者
第1話 死神、秩序と教鞭
オスカーの傷口は七日ほどであっという間に塞がった。最新の医療技術は素晴らしいものだ。幸いなことに後遺症の兆しは見られない。
七日の間に同居に際してのルールが明確に出来上がっていた。
その一、全裸でいないこと。タオルを巻いていても却下。
その二、書類はテーブルの上に置きっ放しにしないこと。
その三、他の住人にも挨拶をすること。
その四、目の前で義眼を出さないこと。
その五、シャーロットを絶対にキッチンに侵入させないこと。
以上の約束ができるまでが悲惨であった。
四番目、エヴァンがやらかした。二階に親子が住んでいる。帝都市警の父レイモンドと娘のヴィオラ。彼らに挨拶した時にヴィオラがエヴァンの目に魅了された。
「きれいなおめめ!」
──どうして二つとも色が違うの?
猫のぬいぐるみを抱えた金髪の少女に、エヴァンは柔らかに微笑んでガーネット色の目を取り出した。
瞼のなかに指を食い込ませ、ぬちゃぬちゃとした音を目の前で立てながら、目玉が手のひらに放り出されるショッキングな場面に、唖然となってぬいぐるみを落とす無垢なヴィオラ。なんてものを見せるのだと怒る父レイモンド。何度も謝るオスカー。
「何故? 聞かれたから取っただけだが? 違うのか?」
理解不能だと首を傾げると更にレイモンドが喚いたが、意味が分からずに無視を決め込んだ。その日の夜にレイチェルが駆け込んできてしこたま怒られた。挙句にその日はエヴァンの夕食が無しになり、外食に出かける羽目になった。彼女の料理上手に心底胃袋を掴まれていたので、辛い仕打ちだった。外食後にヴィオラに菓子を買ってなんとか許してもらえた。
しかしそれ以上に恐ろしい事件が起きた。思い出すだけでも頭痛がする。
シャーロットの料理が壊滅的なのは分かっていた。なのでさりげなく行かせないように、書類を多めに彼女へと流していたのだ。それなのに、オスカーを下僕と認定した彼女は、なんと少年にそれらを押し付けたのだ。キッチンに侵入した彼女はやらかした。
料理が壊滅的な人間の特に厄介なところは、本人自身が料理に対して変な自信があるのだ。無自覚というのは恐ろしい。
簡単に言えば、食料から炭を錬成した。
もう一度言おう。彼女は、料理ではなく、食料で炭を作った。錬成した、と言い換えた方がマシだろうか。いや、全くマシにならない。意識が遠のきそうになったのをエヴァンは感じた。
「美味しいご飯を作ってあげたわ!」
とテーブルに置かれたそれを見て、「美味しそう!」だなんて言える猛者はいない。死神でも、死祖でも、神でも言うまい。案の定食卓は静寂に支配された。
アーネストとアンネは目を反らす。絶対口にしない、断固とした意思表示だ。
生きているのか、その黒い物体は蠢いているかのような錯覚を感じる。見ていると気分が悪くなりそうだ。端的に言うならば冒涜的。存在そのものが恐ろしい。
エヴァンがシャーロットを抑え、オスカーが無言で捨てた。
二度とシャーロットをキッチンに入れまい。エヴァンはオスカーと誓い合った。無論、レイチェルへの警告は忘れなかった。二人の必死な訴えに、レイチェルは気をつけるわ、と短く頷いた。
デンジャラスな日々であったが、仕事は休みを与えない。食事と入浴以外は書類仕事に噛り付いた。シャーロットは飛行船での報告書、エヴァンはビクトリア号での報告書とそれまでに起きた死の書類を書き上げる。こればかりは手書きだと手首が痛くなるので、タイプライター──大変昔のもの──を使った。
ようやく終えたエヴァンの目の下のクマは前よりも濃くなっている。シャーロットは暫く自分のタイプライターは見たくないと言ってオスカーのベッドに潜り込んで死んだように眠りについた。ただ食事の時間となれば、知らぬ間に席についている。
「オスカー……、やっと死神のことについての座学ができる」
椅子に項垂れながら座る。気の利いた弟子が紅茶を用意してくれた。
「学校は?」
「気を遣われちゃって、休学するように言われてます。でも明後日からは通学する予定です」
「そうか……。勉学は大事だ。大人になると、あの時ちゃんと取り組めば良かったと後悔する。後悔は人間の得意技だ」
ティーカップを手にとって喉を潤す。乾いたなかが蘇る。
息をゆっくり吐き出し、足を組む。
「基礎的なことを教えよう。死神とは何か」
「はいっ」
向かいに座るオスカーが姿勢を正した。ノートと鉛筆がちゃんとテーブルに用意されている。偉い。
エヴァンは師であるドミナのことを思いながら、トランクから本を出す。死神ならば誰もが配布されている。死神の成り立ち、使命、機関の理念。沢山のことが記された、謂わば教科書だ。
一
「死よ平等たれ」
ただ一言。教本を膝に置き、オスカーを見やる。
「死とは平等だ、オスカー。例え、子どもでいようが、金持ちであろうが、どれほど信仰心が高かろうが、善人であろうが、関係ない。いつ訪れるかも、選べない」
「……はい」
「平等でなければいけない理由は分かるか?」
オスカーは首を傾げて考える。
「平等でなかったら……大変だと思います」
「どう大変だと思う?」
「もし金持ちが長生きするってなったら、きっと、犯罪が増えます。信仰心が高い方が長生きする、というのは、もしかしたら異教への風当たりもひどくなると思います」
「そうだ。他にも色々とあるが、平等でなければ世界の均衡が崩れる」
真面目に答えが返ってきて思わず声が上ずった。エヴァンは死神に成り立ての頃、ドミナのこの質問に面倒だから、と答えて呆れられたことがある。
本を持って二頁目を開く。
死神の歴史が大まかに記されている。
「生命の原初は死の原初なり。はじめに生命が、次に死が生まれた。生命のはじまりが大樹なれば、死は根元、大地、落葉。生命は数多あれど、死は五つからはじまった。根元から最初に生まれしは女主人。次に母と父、次に武器、次に遊び。女主人は名の通り、死を統括し、母は延々と続く輪の如く、父は輪を断ち切り、武器は輪を守り、遊びは外敵の目を欺く。のちに、はじめの人間が死に、母と父の愛撫によって心臓となった」
次の頁を開けば、系図が見開きで記されている。オスカーに見せた。
死から統括の
「マーテルは転生する魂を選定する。他に死神を産む役割を担っている。カルディアを姉、我々は彼女の弟と妹である」
「エヴァンも?」
「皆兄弟だ」
「そうなんだ……」
「パルテは天界──
「天使と悪魔じゃなくて死神がするの?」
「そうしなければ、全部掻っ攫うぞ、奴等は」
眉を潜めて答えると、オスカーの体がぶるりと震えて縮こまる。何を想像したのか知らないが、想像力が豊かだからロクでもないことでも妄想したのだろう。
「ワルキューレはマシだな」
「ワルキューレ?」
「北欧の半神だ。戦士に値する人間を手下として迎え入れる。これについてはアルマが選別を手伝っている。我々機関にも守り手が必要だ」
「カルディア、さん? さま?」
「この座学では敬称はいらない。ただ本人や他の死神の前ではつけた方がいい」
「うん……あ、はい。ええっと、カルディアは何をするの?」
「カルディアは主に魂の研究をしている。魂の研究は機関で最も大事なことだ。他には死神たちが使う道具の生産と発明、それから治療だ」
様々な要因で魂が傷つけられた場合、治療が必要となる。それを担うのがカルディアだ。
「この六人の死神を総じて
テーブルに広げられたノートを見下ろす。可愛らしい文字で綺麗にまとめられている。勉強熱心なところが昔の弟子に似ていて思わず笑みが零れた。けれども今はいい思い出ではない。
笑みを引っ込めるために、温くなってしまった紅茶を飲む。
「一週間前に魔術師は敵であると、言ったのは覚えているか」
「覚えています」
頷きにホッとする。優秀な生徒を持つというのは楽である。
「天使、悪魔、ワルキューレとは敵対するときもあれば、協力する時もある。だが、常に敵である存在がある。それが魔術師、魔法使いだ」
もう一口含み、喉を潤す。
あまり話したくないが、弟子なのだから気をつけてもらわねば。魔術師と魔法使いは何が何でも死神の力を手に入れたがる。
「彼等が魔術を極めるのは不老不死を目指しているからだ」
不老不死──誰もが一度は望んでしまう。
「そして彼等は研究の結果、死神が本当に実在することを完璧に理解した」
死神は死んだ人間にしか現れない。人間のふりをして、死が訪れた時に死神としての力を発揮する。普通ならば否定するものだが、魔術師はそれを簡単に理解し、死神こそ死を克服するに最適な材料であると判断したのだ。
「君が死にかけた時に見た天秤は死神の力の源だ。奴等はそれを手中に収めようとし、我々はそれを阻止しなくてはいけない。彼等が野望を捨てない限り、敵対関係は延々と続く」
オスカーの顔は優れない。シャーロットが言った、モルモットにされるという意味をようやく分かったのだ。もう彼は魔法使いや魔術師が活躍する小説や映画、舞台を純粋に楽しめることはないだろう。ましてや母親の魂を盗んだ第一容疑者でもある。
壁に掛けられた時計が午後三時を示す。今日はオスカーの母親を迎えに行く日だ。まだ目覚めていない。オスカーの父親には連絡したが、帰りたくとも帰れない状態らしい。何せ大帝国へ入国する切符はなかなか取れないでいるのだ。特に鉄道の主要な駅が爆破されたせいで更に困難になった。
エヴァンはオスカーが電話する前にフランス=ルイ王国に赴任している死神に暗示の魔法をかけるように依頼しておいた。おかげですっかり親戚がいるから大丈夫だと思い込んでいる。
「今日の座学はここまでだ。君の母君を迎えに行こう。タクシーは予約しておきなさい」
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